連載「脳力のレッスン」世界 2008年6月号
宮沢喜一と戦後日本
二〇〇七年六月二八日、ワシントン訪問中の私は、滞在中のウイラード・ホテルから早朝の散歩に出て、隣のワシントン・ホテルを横目で見ながら、財務省の前を通り、ホワイトハウス正面の公園のベンチに座った。思えば、あのワシントン・ホテルこそ宮沢喜一が敗戦後の一九五〇年四月に蔵相池田勇人とワシントンを訪れ、いつ財務省からお呼び出しがかかるか分からないので、ホテルの部屋に閉じこもり二人で福神漬で酒を飲みながら待ち続けたと自伝(『戦後政治の証言』)に書いていた場所である。そんなことを思いながら思索に耽っていると、東京からの携帯電話が鳴り、それは「今日、宮沢さんが亡くなられました」という連絡であった。不思議な因縁を感じながらワシントン・ホテルを見つめた。
TBSの番組「時事放談」で〇五年一一月二〇日に御一緒させていただいたが、この時が宮沢さんとの最後の面談だった。朝日新聞の若宮啓文氏(前論説主幹)が、まだ私がワシントンで活動していた一九九六年頃、宮沢さんとの最初の夕食会を設定してくれて以来の縁であった。不思議なほど波長が合い、折にふれ励ましていただいた。とくに九・一一事件が起こり、逆上したブッシュ政権がアフガニスタン、イラクへと軍事力を展開していく時代潮流の中で、何度となくテレビの報道番組で宮沢さんと同席する機会があったが、「不必要な戦争を拒否する勇気」という思考において共鳴する部分が大きかった。政権の要職を去ってからの宮沢さんが次第に澄み切った洞察力を深めていることを実感した。ある時、宮沢さんは米軍のイラク攻撃について、「これは九・一一への報復戦争だ」と言い切ったが、誰もが「テロとの戦い」とか「イラクの民主化」という戦争の大義なるものに疑念を抱いてはいたが、そこまで言うかと驚嘆した思い出がある。
日米学生会議の青春
日米戦争が始まる二年前、一九三九(昭和一四年)の夏、宮沢喜一は日米学生会議に参加するため太平洋を渡った。一九一九年生まれの宮沢は一九歳、この時、日本側からの参加メンバーの一人が後の宮沢夫人となる伊地知庸子さんだったことはよく知られた話である。長女宮沢啓子が書いているごとく、庸子夫人は最後まで「父(宮沢喜一)が政治家になったことに納得していなかった」というし、宮沢も「政治に関与しない母を説得しようとしたこともありませんでした」という。
米国に向かう船上で、米国務長官の「日米通商航海条約廃棄通告」を知り、オレゴンのホテル滞在中にヒットラーのポーランド侵攻(第二次大戦開始)を聞いた。戦争という暗雲が近づく中での米国体験、繰上げ卒業で大蔵官僚になったものの赤紙召集されたという体験がその後の宮沢を形造る要素になったことを思わずにはおれない。「日本はどうしてあんな無謀な戦争に突入したのか」「どこで道を間違えたのか」、この問いは宮沢喜一が生涯待ち続けた問題意識であり、繰りかえし発言していたポイントでもあった。「保守リベラル」「ハト派のリーダー」という存在感を放ち続けていた根底には、戦争に向った時代の「自由な思考と発言への制約」という重苦しい時代に対する強烈な反発が横たわっていた。「われわれは、将来に向かって自由の制限につながるかもしれないどんな兆候に対しても、厳しく監視する必要があります。」(『新・護憲宣言』一九九五年)という言葉にその真髄があるといえよう。
宮沢喜一という人が戦後日米関係史の証人とでもいうべき存在であったことは、『東京–ワシントンの密談』(一九五六年、実業之日本社)という彼の著書を読むと理解できる。後になって「思い出の記」として脚色されたものではなく、一九四九年から五四年までの、占領、講和、独立という時代にかけて日米交渉の記録をその直後の一九五六年の時点(宮沢三七歳)でまとめたものであり、その交渉の現場に「秘書役」として立ち会っていたことを示す貴重な証言録である。
一九四九年、池田勇人蔵相の秘書官として、宮沢は来日した米政府の特使ジョセフ・ドッジがマッカーサー司令部と対立しながら「ドッジ・ライン」と呼ばれた経済再建策を展開するのを目撃する。翌五〇年、被占領国の閣僚として初めて池田蔵相訪米に同行する。さらに五一年、吉田茂首相のサンフランシスコ講和会議にも同行して、主として池田蔵相と行動を共にし、正に歴史的現場に立会っている。サンフランシスコ講和会議に関して、青年官僚だった宮沢喜一が示した観察眼は驚くほど鋭い。講和条約が残した二つの課題として、宮沢は「千島列島、クナシリ、エトロフの問題」(北方領土問題)と「基地を巡る日米の摩擦」を指摘し、将来への懸念を表明している。講和条約を急ぐためにソ連が占拠していた北方領土の帰属を曖昧なまま残したことと、講和条約と並行した日米安保条約の締結と行政協定が占領軍の地位の変更を明確にしなかったことが基地を巡る摩擦の可能性を内在させていることを的確に指摘しているのである。宮沢喜一が五〇年以上も前に懸念していた「北方領土」と「米軍基地の地位」の問題は今日に至るまで未解決のまま引きずっているテーマであり、その意味でまだ戦後は終わっていないのだと思う。
宮沢喜一への思い—リベラルということ
ところで、私には宮沢喜一について忘れ難い思い出がある。一九九二年七月、ミュンヘンでの先進国サミットを前にして、日米首脳会談のために宮沢首相はワシントンを訪れ、ホワイトハウスの向いの迎賓館たるブレア・ハウスに滞在していた。当時、ワシントンで仕事をしていた私のオフィスはホワイトハウスの斜め前のビルにあり、ブレア・ハウスの隣だった。日本の取材陣がとりまき、宮沢首相が姿を現すと大声で質問を投げつけていた。その時、サミットに向けての日本の最大の関心事は「北方領土問題」だった。北方領土問題がサミットの共同声明に入るか否かが、先進国サミットの成否を決するといわんばかりの勢いで記者が質問を続け、宮沢首相は「努力する」という答えで対応していた。結局、日本は悲壮な覚悟で根回しを進め、サミットの共同宣言に「日露間の領土問題の解決促進」を盛り込むことができた。しかし、その後の北方領土問題の経緯を考えるならば、外交エネルギーを燃やして共同宣言に持ち込んだ意味があったとは思えない。後日、宮沢さんとの面談で、この時のことを持ち出すと、苦笑いしながら「日本人は思い込むと急に視野が狭くなるからなあ」と呟いていた。長期的な「国益」を国際社会で実現するために実効ある外交施策を冷静に構想することよりも、狭隘な自己主張に熱を入れる傾向は、日本の国際関係において再三繰り返され、「拉致問題」をサミットのアジェンダに入れようとした時も同様であった。大きな戦略構想の中でしか問題が解決しないことに気付きながらも、なかなかパラダイムを変えることのできない現実をその苦笑が象徴していた。彼の心には、サンフランシスコ講和会議以来の積み残し案件への複雑な思いが去来していたのかもしれない。
政治家としての宮沢喜一の評価については厳しいものとならざるをえない。九三年六月、党内抗争による宮沢内閣不信任案が可決され、自民党の分裂と政界再編の引き金がひかれて自民党単独政権の崩壊をもたらしたことは宮沢喜一の責任とは言えないが、「保守リベラル」の基軸を守る後進を育てきれなかった責任は重い。宮沢喜一は戦後日本の政治人脈の中では「石橋湛山−池田勇人」という保守リベラルの系譜の中にある。八六年には「公卿集団」といわれながらも「自民党の良識」でもあった宏池会の会長となりながら、河野洋平を離党させ、加藤紘一を育てきれず、しっかりとした保守リベラル勢力の結節点を構築することに失敗した。このことは現在の日本の政治状況にとって極めて不幸なことである。
何故、後進を育てきれなかったのか。それはあまりにも宮沢喜一の「個」が強く、自分の美意識や文化のレベルのこだわりが高かったからというべきではないか。若き日の宮沢喜一は白洲次郎や小林秀雄との親交を通じ、その自らの美学を貫くライフスタイルに大きな影響を受けたという。基本的に「群がること」が嫌いで、政治家の日常活動とされる冠婚葬祭も避けていた。一人一人の個が「大人であること」を大事にしたかったのだと思う。彼は最後まで勲章を受けなかった。虚飾を嫌う宮沢喜一の美学であった。

