寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2008年5月号

問いかけとしての戦後日本——(その2)米国のTV映画が日本人に埋め込んだもの

戦後という時代を生きた日本人が共有した体験がテレビ文化であった。それまでの日本人との決定的な違いの一つがメディア環境として「テレビを観て育った」ということである。一九四七年生まれの私が初めてテレビというものを観たのが五四年の夏、七歳の時で、わが家がテレビを買ったのが小学五年生の時、五八年だった。NHKがテレビ放送を開始したのが五三年二月、初の民間放送局として日本テレビが放送を開始したのは同年八月であった。それから五年、五八年五月にはNHKのテレビ受信契約は一〇〇万件を超え、六〇年八月には五〇〇万件、六二年三月に一〇〇〇万件を超すという爆発的普及を見せた。この黎明期の日本のテレビ放送において、米国のテレビ映画が果たした役割は重かった。

米国製テレビ映画に浸った日々

日本のテレビで初めて米国のテレビ映画が放映されたのは一九五六年、『カウボーイGメン』(KRT)『ハイウェイ・パトロール」(NHK)であった。KRTとはラジオ東京テレビで現在のTBS(一九六〇年改称)である。また、この年から始まった『スーパーマン』(KRT)が日本人の声優による吹き替えの初例であり、「日本語を話すアメリカ人のドラマ」が茶の間に浸透していった。やはり五六年に放映が始まった『名犬リンチンチン』(NTV)、五七年からの『名犬ラッシー』(KRT)『アイ・ラブ・ルーシー』(NHK)、五八年から『ローン・レンジャー』(KRT)『パパは何でも知っている』(NTV)『ディズニーランド』(NTV)、五九年からの『ビーバーちゃん』(NTV)『うちのママは世界一』(フジ)などが人気を集め、六〇年代までの日本のテレビは米国製テレビ映画の黄金期であった。

戦後世代の日本人は物心ついた頃から米国製テレビ映画に取り囲まれ、まず例外なく幾つかのお気に入りの番組に夢中になったはずである。この世代の日本人は、米国のホームドラマに触れることで、広い庭のある家に住んで大型冷蔵庫から大きな牛乳瓶を取り出してがぶ飲みする豊かな生活に憧れ、高校生が自分の部屋を持ち、週末には車に乗ってデートでパーティーに行くという姿に衝撃を受けた。また、『ローハイド』や『ララミー牧場』などカウボーイ映画の主人公の男気に心打たれ『コンバット』のサンダー軍曹の冷静沈着な勇気にしびれ、いつの間にか日本の同盟国だったナチス・ドイツが敗れるストーリーに拍手を送る日本人になったのである。日本人の深層心理に、いつしか米国への親近感と憧憬が埋め込まれていった。大人たちの会話に「あんな国とよく戦争をしたものだ」というフレーズか交わされていた。

NHKが製作した大著『二〇世紀放送史』(二〇〇一年)によれば、日本のテレビ放送 の黎明期に米国のテレビドラマがかくも上陸した背景は、「放送権料が割安だった」という事情があるという。一九五三年から五四年ごろ、米国の主要映画会社は「テレビにフィルムを売らない方針」を堅持しており、ハリウッド製テレビ映画が製作されることとなった。放映し終わったものの二次利用については一本二〇〇〜三〇〇ドルの格安で提供してくれ、「外貨規制」の時代で高額の放送権料を支払う能力のなかった放送事業者としても有難い番組コンテンツだった。五六年度の外貨割当はNHKが九万ドル、NTVとKRTはわずか四万ドルであった。

しかし、日本に米国製テレビ映画が上陸した事情はもう少し複雑であり、極めて政治的な要素が働いていた。そもそも日本のテレビ放送自体が米国の政治的意図を背景として誕生したとさえいえる。有馬哲夫の『日本テレビとCIA——発掘された「正力ファイル」』(二〇〇六年、新潮社)は米国の国立公文書館などに残る極秘文書等を発掘した労作であり、米国が日本の共産化を防ぐための対日心理戦略の一環として日本のテレビ放送網の整備を支援した構図が丹念に検証されている。「テレビ放送の父」とされる正力松太郎が、「マイクロ波通信網」によって日本でのテレビ放送を実現しようとした構想を米国が支援した背景には、一九五〇年に米上院議員カール・ムントが打ち出した「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想、すなわち米国流の正義と民主主義の価値を宣伝する海外向けラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」のテレビ放送版の実現を求める構想が強く影響していたことは間違いない。日本におけるテレビ・メディアの創生そのものに第二次大戦後の東西冷戦に向かう世界状況が影を投げかけていた。そのメディアを通じて放映されたコンテンツに関しても、「親米的世論を喚起し、日本の共産化を防ぐ」意図で、「アジア財団」などの組織が「米国にとって好ましい番組」の提供を支援し、便宜を図っていたのである。

マッカーシズムとの同時代性

自分自身の組成を解剖するような恐れを覚えるが、我々の体内に戦後という時代の刻印が埋め込まれており、それは「敗北を抱きしめて」ではないが、アメリカという国へのトラウマである。とくにテレビの黎明期が「マッカーシズム」といわれた時代と同時化したことの意味は重かった。

マッカーシズムとは、共和党のマッカーシー上院議員が、一九五〇年二月に「国務省の中に二〇五人の共産主義者がいる」と発言したことに端を発し、全米が「反共パラノイア」のようになって「赤狩り」に狂奔した状況を意味する。後に検証された事実関係からすれば「二〇五人」などという数字も出任せの無責任なデマだったのだが、共産主義の脅威が忍び寄っているという猜疑心と憎悪が燎原の火のごとく燃え広がった。

背景には前年の四九年の共産中国(中華人民共和国)の成立、五〇年の朝鮮動乱の勃発、四六年のチャーチルの「鉄のカーテン」発言に象徴されるソ連を中核とする国際的な共産勢力の台頭と東西冷戦構造への傾斜という時代潮流があった。とりわけ四九年のソ連の原爆保有、五三年の水爆保有という事態は米国を震撼させ、「アジアの共産化」に対する恐怖心は尋常ならざるものがあった。五一年にサンフランシスコ講和会議が行われ、敗戦国日本が「国際社会に復帰」できたのも、日米安保条約が締結されたのも、「日本を西側陣営の一翼を担う存在に取り込む」という米国の意図があったことは間違いない。このことは『二十世紀から何を学ぶか』の下巻「一九〇〇年への旅、アメリカの世紀、アジアの自尊」(新潮選書、2007年)に書いた。さらに米国の懸念を深める事態が発生した。五四年三月のビキニ環礁での水爆実験と日本の漁船第五福竜丸の被爆である。原水爆禁止運動が盛り上がり、日米関係の前途に暗雲が立ち込めた。「水爆禁止署名運動」には三〇〇〇万人もの人が署名し、反米感情が臨界点に迫っていった。五〇年代後半の日米関係は六〇年の日米安保改定を巡る「戦後最も熱い政治の季節」に至る緊迫感に満ちたものとなり、「親米の保守」対「反米の革新」という「五五年体制」の構図が鮮明になっていた。

日本におけるテレビ・メディアの誕生と普及が、東西冷戦に向かう時代と同時化したこと、しかもそれは偶然ではなく相関していたことは、日本の戦後なるものを考える時、あまりにも重い事実である。当時の米政府は大統領府のNSC(国家安全保障会議)を窓口に国務省、CIA,国防総省を束ねて、「中立主義者、共産主義者、反アメリカ感情と戦うために」強い戦略意思を持って「対日心理戦」を展開しており、日本のメディアへのニュース素材や番組ソフトの提供による情報操作を実施していた。そうした情報環境で我々は育ったのである。

私自身、八〇年代以降の米国を頻繁に訪れ、八七年からは一〇年以上も米国の東海岸に居住するという体験をしてきたが、例えばフロリダのユニバーサル・スタジオやディズニーMGMスタジオを訪れ、米国の五〇年代から六〇年代にかけてのテレビ映画を彩ったスター達の展示に「懐かしさ」を感じている自分を発見した。また、米国人の友人に『ルート66』『マイアミ・バイス』『アンタッチャブル』『ベティーブープ』などについて「アメリカ人以上に知っている日本人」として奇異な印象を持たれた思い出もある。我々はアメリカに関して、よく「価値を共有する」という表現を使うが、「米国を通じてしか世界を見ない」戦後世代日本人の精神構造が深く静かに形成されたのである。