寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2007年12月号

サンクトペテルブルグの日本語学校

「ユーラシア国家」という言葉があてはまる国はロシアだけである。一九九一年のソ連崩壊によって、バルト三国や中央アジアの国々が分離独立したため、ロシアは五三二万平方キロメートルという日本の一四倍にあたる領土を失った。それでも、欧州とアジアをまたぐ広大な国土を有し、「欧州でありアジアでもある国」としてのロシアが横たわっている。

そのロシアの西の出口がサンクトペテルブルグであり、ロマノフ王朝の欧州への熱い思いが凝縮した街といえる。東の出口がウラジオストックであり、地名の意味が「東を征服せよ」にあるごとく、ロシア帝国の東洋への野望を象徴した街である。どちらも人工的に建設された都市という共通の性格を有す。とりわけサンクトペテルブルグは、常識的には都市など建設できそうもないネヴァ川河口の三角州に、洪水などで多数の犠牲者を出しながらピョートル大帝が情熱を注ぎ込んで建設した「ヨーロッパへの窓」であった。若き日の大帝は身分を隠してまで欧州を歴訪し、アムステルダムでは船大工として東インド会社の造船所で働くという体験をした。こうした体験を通じたヨーロッパへの羨望が、運河の街アムステルダムをモデルとする首都の建設に向かわせたのである。

サンクトペテルブルグは一七一三年から一九一八年までの約二百年間、革命によってモスクワに首都が移るまで、ロマノフ王朝の首都であった。バルト三国が独立した今、再び欧州へと繋がるバルト海への出口としての意味を高めている。

ロシアの日本語学校

九月末、サンクトペテルブルグ大学での講演の機会に、紅葉のサンクトペテルブルグを訪問した。「二一世紀の日露関係」という話をしたのだが、同大学の東洋研究学部のビクター・ルィービン日本語科長が集積した資料によって、日露関係の歴史を踏み固める事実を確認する機会となった。

驚くべき事実だが、サンクトペテルブルグに日本語学校が設立されたのは一七〇五年だったという。ピヨートル大帝が都市の建設をスタートさせた一七〇三年のわずか二年後に「ロシアの西の出口」にピョートル大帝直々の命令で日本語学校が出来たのである。日本史の年表ではほぼ赤穂浪士の吉良邸討ち入り(一七〇三年、元禄一六年)に重なる時期であり、大阪出身の船乗りであった伝兵衛が漂流民としてカムチャッカに流れ着き、カムチャッカを探検中のコサック隊長ウラジミール・アトラーソフによって一七〇一年にモスクワ、サンクトペテルブルグに連れ帰られた。記録によれば、一七五四年に日本語学校がイルクーツクに移転するまで、九人の日本人漂流民が日本語学校を支え、ロシアで骨を埋めている。

江戸時代を通じて、多くの日本人漂流民がロシアに流れ着いている。有名な例としては、一七九一年の大黒屋光太夫で、女帝エカテリーナU世の拝謁の機会を得ている。それが翌一七九二年のラックスマンの根室来航の伏線になった。また、一八〇三年には石巻出身の四人の船乗りがアレクサンドルT世に謁見している。この四人は、サンクトペテルブルグのワシリーエフ島で、パリからやってきていた気球師による気球打ち上げのショーを皇帝とともに見物するという体験もしている。この四人こそ日本人として初めて地球を一周した人間である。一七九三年に漂流してから一八〇四年に長崎に送り届けられるまで、サンクトペテルブルグ滞在の後、遣日使節レザノフ一行とともにコペンハーゲン、英国のフォルマスに寄港して大西洋を渡り、ホーン岬を回って太平洋に出てハワイに立ち寄り、カムチャッカを経て文字通り世界を一周して帰り着いたのである。帰国後の四人を待ち受けていたのは冷酷な幕府の受け入れであり、鎖国を破った者として江戸に送られ仙台藩邸で四〇日にもおよぶ大槻玄沢らの事情聴取を受けている。それをまとめたものが「環海異聞」である。

残念なことに、「環海異聞」に残された記録では、帰国した四人の知的基盤が低く、自分たちが地球を回ってきたことの意味を的確に認識・観察・表現する力が無く、聞き取り役の大槻も苛立っているごとく、十分に見聞してきた世界の実情が伝わらなかったという面もあるが、幕府にとっても「外の世界」への関心を刺激する機会となったといえる。

一八五三年のペリー浦賀来航の半世紀も前のことであり、日本開国の契機をペリー来航とする歴史観に固まっている視界からは見えない日露関係史の重みが次第に見えてくるのである。イルクーツクの日本語学校は一七五四年から一八一六年まで日本語教育を続けていたが、一時中断した。サンクトペテルブルグ帝国大学での日本語教育は一八七〇年から始まり今日に至っている。

日露関係史の曲折と未来

私自身が生まれ育った北海道と極東ロシアとは「歴史的双生児」とさえ呼べる開発経緯を背負っている。長崎に漂流民を送ってきたレザノフの通商要求を拒否した幕府はロシア船来航への警戒を強め、一八〇六年には津軽・南部藩にも蝦夷地守備を命じた。事実、この頃からロシア船がカラフト、エトロフ、利尻などに来航して日本側の会所を襲う事件が続発し、幕府としても松前藩任せでは無く、国を挙げて蝦夷地の守備体制を固める必要に迫られたのである。一八六〇年にロシアの極東進出の野心が、北京条約によるウスリー河東岸の中国からの割譲をもたらし、ウラジオストックの建設が始まると、前年に開港した箱館を基点に蝦夷開発を加速させ、それが明治新政府の北海道開拓への導線となっていく。

確かに一九世紀末から二〇世紀を通じての歴史は不幸な対立の積み重ねであった。帝国主義下の日露の北東アジアを巡る利害衝突であった一九〇四〜〇五年の日露戦争、ロシア革命を機に一九一八〜二二年に日本が「共産主義の脅威」に過剰反応して行なったシベリア出兵、一九四五年のソ連の突然の参戦と日本軍人に対するシベリア抑留、一九九一年のソ連崩壊まで半世紀以上続いた東西冷戦下での緊張など、二〇世紀の日露関係はとても相互信頼を構築できるようなものではなかった。

そして冷戦の終焉、ソ連崩壊から十年間のロシアの混迷と苦闘は深刻で、エリツィンを継いでプーチンが大統領として登場した二〇〇〇年の沖縄サミットの頃には、ロシアの将来を悲観する意見が大勢を占め、ロシア人の祖国への誇りは深く傷つけられていた。ところが、二一世紀に入っての六年間で、我々は思いもかけないほどの「甦るロシア」を目撃することになった。エネルギー(化石燃料)の増産と価格の高騰を追い風とするエネルギー収入の増大による復権である。

「エネルギーを武器に甦るロシア」を主導したプーチン大統領への国民の支持は高く、「エネルギー帝国主義」「帝政民主主義」という言葉さえ囁かれる国際社会の批判をよそに、一段と専制体制を強めつつある。ロシア人からすれば国際社会でのロシアの存在感を高め誇りを取り戻させてくれたプーチン路線への圧倒的支持という心理に傾くということになるのであろう。エネルギーを武器に大ロシア主義に回帰するロシアは、日本にとっても脅威と機会という複雑な存在となろう。

エネルギー分野だけではない日露の経済関係も新たな局面を迎えつつある。サンクトペテルブルグに進出を決めたトヨタの工場は、本年末には生産を開始する。カローラ年産二万台という計画だが、順次部品工場の進出も予想され、この街への進出日本企業の数も四〇社を超えようとしている。アジアへの出口ウラジオストックとモスクワ、さらに欧州への出口サンクトペテルブルグを?ぐシベリア鉄道の高度化などの物流回廊プロジェクトも日露連携の案件になりつつある。「北方四島」などの懸案事項もあるが、二一世紀の北東アジア圏をどのように構想するのか腰のすわった戦略が求められる。漂流民で始まった三〇〇年の日露関係史に新しい風を吹かせるべき時である。