寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2007年11月号

現代に生きる空海

二〇〇七年の夏、私にとってとりわけ強く印象に残る体験は高野山大学夏季講座での講演であった。八月四日夕刻、高野山の大師教会本部の二二〇畳の大講堂を埋める約七〇〇人の聴講者に蝉しぐれだけが聞こえる不思議な静寂の中で向き合った。毎日新聞が窓口となったこの講座には、全国から抽選で選ばれた一般公募の受講者である、二十歳の女性から九二歳の老人までが集まっていた。この夏季講座が始まったのは一九二一年(大正一〇年)だという。戦争期に二年だけ中断したものの八六年の歴史を有し、これまで講義をしてきた人のリストを一瞥しても、新渡戸稲造、和辻哲郎、与謝野晶子、菊池寛、大仏次郎、小林秀雄、司馬遼太郎をはじめ近代日本の知性を支えた人物が名を連ねている。気後れしたが、「自分のジャンルの話で結構です」という事務局の話を抑えて、この機会に空海・弘法大師を自分なりに理解してみたいと思い、神田の古本屋で空海に関する本をできる限り入手し、米国・欧州・アジアと動き回る飛行機の中でも空海に関する本を読み込み、「現代に生きる空海———経済人の視点から学ぶべきこと」と題して正面から空海を取り上げる話をしてみた。

国際人としての空海

空海が中国に渡った西暦八〇四年、一二〇〇年前の平安時代の日本の人口は約五〇〇万人で、農耕を主とする一次産業だけの国であった。その頃の日本にとって唐時代の中国は超先進国であり、長安は人口一〇〇万を超す世界都市であった。四〇〇〇人のペルシャ人が住んでいたという記録もあるが、ユーラシアの各地から様々な民族が訪れ、国際交流の基点であった。つまり、空海は途方もない世界体験をし、外から日本を見るという経験を深めた国際人の先駆者であった。

近代の国民国家とは異なる「国家制」の時代ではあったが、国の境界に立ち、自らの生きてきた国を相対化する視点を無意識のうちに身につけたといえよう。私は鈴木大拙に関心を持ち、「禅の精神を世界に発信した鈴木大拙という存在」という論稿(「二十世紀から何を学ぶか— —一九〇〇年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊」所収、新潮社刊)を書いたことがあるが、大拙に心ひかれる理由も、独りよがりにならず、国の外から自分たちを相対化する目線で、あえて日本と外国の境界に立ち、自己の思索を鍛えた点にある。その大拙の遺言に基づき分骨した墓が高野山奥の院にあると聞き、高野山への関心が潜在していたことも夏季講座での話を受ける気持にさせたのかもしれない。大拙の墓は、真言密教の研究者でもあった夫人の墓の隣にひっそりと存在していた。

圧倒的な外国体験を経て、外国かぶれにもまた偏狭な外国嫌いにもならず、しなやかに自分の思惟を深めることは容易ではない。空海が放つ知的緊張感には、柔らかいが強靭な意思がみなぎり、あるべき国際人の原型を空海に見ることができる。空海の超人的才能は驚嘆すべきもので、中国に辿り着いた時には完璧なまでの中国語を話したといわれ、門弟千人といわれた青龍寺の恵果に師事し、わずか数ヶ月で真言密教の第八祖としての最高位を授けられた。現在でいえば、博士号どころか教授を超えて学長になるがごとき評価を得たということになる。考えられないほどの才能を有していたともいえるが、すべての人を魅了する謎めいた力を持っていた空海という姿が浮かぶ。

エンジニアとしての空海

真言密教の伝道者としての空海が精神世界に果した役割とは別に、空海に関する文献を読んでいて気付くのは、現実世界の課題に立ち向かうエンジニアとしての足跡の大きさである。空海は仏教関係の経典だけでなく土木工学、薬学、冶金関係の資料・情報を持ち帰った。日本全国に空海が掘ったという井戸や溜池が存在するが、灌漑治水を支える技術、薬学・医療に関する情報、金を加工する水銀などに関する技術など、当時の先端的技術・情報を導入する上で空海が果した役割は驚嘆すべきものである。つまり空海は理科系の人だったともいえる。彼は京都の東寺に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」という学校を造り、庶民に一芸・技術を身につけさせる試みを始めた。日本における私立学校の原点である。仏教の学校ではなく、誰もが入学できる生活の糧を得る技術学校を創ったことに注目したい。

静かに考えれば、空海は天才的プロジェクト・エンジニアだったともいえる。京都の中心部に東寺を手にいれ、深山幽谷の高野山に標高八〇〇mの天上の伽藍を築き上げた。東寺は現世の権力との接点にあり、京都の政治権力に隠然たる影響力を確保する情報の拠点であった。また高野山は世俗から距離をとり、深く内面の精神世界に向う基点であり、いかなる権力にも超然として構える磁場であった。奥の院に向って歩いて驚くのは、織田信長、明智光秀などの墓があることで、墓暴きさえされかねない現世での評価の難しい人生を背負った人たちまでが最後の安静の場を高野山に得ているのである。

仏教というと、ともすると「諦めの哲学」に傾く印象があり、現世で満たされない願望を来世に託して抑制された心境に至るとか、「名もなく貧しく美しく」ひたすら一隅を照らして生きよというメッセージを発信していると捉えられがちである。何やら水墨画をみるような淡白さを感じる。しかし、空海の仏教は違う。東寺の立体曼荼羅をみても分るが、あでやかな極彩色の世界観が躍動する逞しいメッセージが伝わってくる。空海の生き方そのものの中に、現世の欲望さえも直視して現世を力強く生き抜く鮮やかさが満ちているのである。「空海というビジネスモデル」という表現をあえて使うならば、空海は存在自体が信じがたいほどの成功モデルである。時に「空海俗物説」が語られるのも頷けるほどの輝きを放っており、壮大な構想力によって不可能を可能にする人生を描き、かつ実現していった人物である。空海の教えに心を向ける時、その世界観を貫く「全体知」(INTEGRITY)に啓示を受ける。つまり、世界をあくまで調和的に捉え、人間に潜在する仏性を信じて絶対平等の世界を訴えるその思想は、彼が現世において戦い実践した行動の重みによって輝きを増し、途方もなくバランスの良い全体知に溢れる存在感を与えるのである。

彼がその世界観・宇宙観を示そうとしたものが、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅という二つの曼荼羅であるとすれば、それぞれが時間と空間の二つの相を描き出して全体性の中で自らを位置づけようとする世界表現である。この表現、よく考えれば、現在流行の「図解の技術」であり「可視化」である。曼荼羅の前に立ち、深呼吸して中心にある大日如来と自らを一体化させる意識の中で、生きる力と可能性を躍動させる仕掛けは感動的でさえある。

もし現代世界に空海が生きていたならば、という仮説は限りなく私の問題意識を刺激する。この不条理に満ちた世界に対して、いかなるメッセージを発信し行動しただろうか。グローバル化の名の下に進行するマネーゲームの浸透、国の指導者における責任倫理の劣化、民衆を支えるべき宗教と教育の荒廃、こうした事態に空海ならば決して目を背けず、「全体知」を求める構想力で問題の本質的解決に立ち向かったであろう。

司馬遼太郎は「空海の風景」という名著を書いたが、あくまで空海そのものではなく、彼を取り巻く「風景」を描くことで空海像をあぶりだす方法をとった。それほどまでに空海は大きく、かつ深いのである。高野山奥の院への道を歩くと多くの白装束の参拝者とすれ違う。四国八十八箇所を巡った遍路さんであり、「同行二人」、つまり空海とともに歩きぬいたと信じ、最後に高野山を訪れ弘法大師空海にお礼参りをする人々である。様々な思いを胸に歩き通し、遍路として四国を巡った人たちの表情には達成感もみえたが、この世を生きることの深い悲しみも見てとれた。一二〇〇年も前の時代を生きた一人の人物がそうした人々の心の支えになっているという事実をかみ締めながら私は高野山を下った。真夏の高野山の夕べに吹く清涼な風に空海の笑顔を見たような気がした。