寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2007年9月号

ベルサイユ講和会議が今日に示唆するもの——(その3)吉野作造という存在

日本が列強模倣の植民地主義へと傾斜していく「誘惑」に疼き始めていた1910年代、冷徹な目線で世界潮流を見据え、日本のあるべき進路に向けて論陣を張っていた吉野作造に注目したい。「平和の失速」といわれ、暗闇迫る時代状況の中における一点の光のごときその存在感を重く受け止めざるをえないのである。時代の空気が多様で柔軟な議論を封殺し、真の正論を求める意思を喪失させていく流れの中で、「あるべき日本」を求め続けた強靭な精神は何故生まれたのか。

吉野の確かな視座

ベルサイユ講和会議に当たり、吉野作造は「何で進んで世界改造の問題に寄与せざる」(中央公論、1918年12月)という問題意識を明らかにし、「今度の会議の一番顕著な主要問題は何といっても世界改造の事業である」(中央公論、1919年3月)と述べている。吉野の視界には、米大統領W・ウィルソンが提起した「勝利なき平和」の概念への共鳴があり、領土の分割・割譲という旧来型の講和を超えた世界平和を維持する制度設計への強い関心が存在した。そのことは、「帝国主義より国際民主主義へ」(六合雑誌、1919年6月)と題した論稿において、「戦後の世界は国際間に自由平等の主義を認める所謂国際民主主義にならねばならぬ」という主張となって展開された。「遅れてきた植民地帝国主義国家」として、日本全体が第一次世界大戦での無傷の勝利に酔い、中国への野心に目がギラギラとし始めていた中で、世界秩序のあるべき姿を求め、帝国主義の終焉を視界に入れていた吉野の識見には驚かされる。ベルサイユ講和会議を総括したともいうべき「何の点に講和特使の成敗を論ずべき」(中央公論、1919年9月)において、「モ少し訳の分った人が往ったらモ少し多くのお土産があったらうと云う意味に於て成敗を説くのなら、吾らは断じて之に与しない。蓋し今次の講和会議は、単に利害の調節を協定するといふに止まらず、実に一理想的原理に依て指導さると云う点に於て、全然従来のと其面目を異にする」と述べ、笑い出したくなるような結びで締め括っている。

「条約に依って日本の獲得せるものの分量を論点とせん乎、そは特使の成功でもなければ又失敗でもない。謂わば三越に往って物を買う様なもので、西園寺候を遣つてもお花さんを遣つても、あれ丈けの物は間違なく獲られる。只問題は、正札のついた物を買ふの傍ら将来の商業取引の改善の事など論ぜる際に、日本の代表者の態度は相当に重きを為したか如何にある。改善の問題に就ては、全然之に理解と興味とを有せざるかに誤解せらるる程度の極度の沈黙を守り乍ら、物を買ふと云う段になると、まけろのひけのと散々番頭と傍観者との顰蹙を買ひつつ結局正札通りに授けられて来たといふのが、一行の赤裸々の成績ではないか」

吉野作造の議論が異彩を放つのは、目の前に進行している事態に対して「国益」を主張するという視座を超えて、世界史の潮流において次に実現するべき価値は何かを見据えていたことであり、その中で日本が果すべき役割に関して構想とビジョンを有していたことである。事態が錯綜とし、相互の自己主張の愁嘆場に入ると、国際関係に関する視点も狭隘な国益への固執という局面に陥りがちとなる。吉野が広い視界から日本の進路をとらえていたことは心を打つ。『中央公論』を主たる舞台に吉野が論陣を張っていたのは、実に吉野が40歳前後のことであった。「民本主義」を語り続け、大正デモクラシーの旗手として戦い、普通選挙導入に当たっては社会民衆党の設立にさえ関与した吉野作造は、1933年(昭和8年)55歳で燃え尽きるように逝った。この年、日本はベルサイユ講和会議を機に設立された国際連盟を脱退、国際社会からの孤立を深め、8年後の真珠湾への道を転がり落ちていくのである。

吉野作造を吉野作造たらしめたもの

吉野作造は1878年(明治11年)、宮城県古川の綿製造問屋の商家に長男として生まれた。古川は仙台の北に位置し、米作と商業の基点でもあった。吉野が12歳の頃、東北本線が古川を通ることへの反対運動が盛り上がり、鉄道は小牛田を通ることとなった。蒸気機関車の煙が稲作に与える被害を嫌った住民の意思であったが、これによって古川の発展は、東北新幹線の古川駅ができるまで制約されることになった。

父、吉野年蔵は糸綿商「吉野家」を営みながら副業として雑誌・新聞の取次を行うなど進取の気性に富む人物で、作造が仙台の第二高等学校法科に在学中に古川町の町長にもなっている。決して貧しい家庭環境ではなかったが、家業を継いだ長姉のしめが早世したことや、1908年の古川の大火で吉野家が焼失して倒産したこともあり、作造の生涯は経済的には恵まれぬものであった。大学進学前の21歳で同郷の19歳の小学校教師阿部たまのと結婚、7人の子供を設けたこともあり、作造の人生は常に清貧であった。

仙台第二高校を卒業後、1900年(明治33年)に東京帝大法科大学に入学したが、この前後、人生を方向付ける体験として、キリスト教と出会っている。宮城での中学・高校の頃から教会での講話に耳を傾け、当時仙台に布教のために米国より赴任していたアンネ・ブゼル女史のバイブルクラスに入り、精神的光明と宗教的情操を感じとっていた吉野は仙台バプチスト教会で洗礼を受けていたが、東大入学後は海老名弾正の本郷教会に帰属、新神学運動を主導する海老名の影響を強く受けるようになった。合理主義的な聖書解釈と「神人合一」の道徳性をキリスト教に求める海老名の姿勢が、吉野の思考の基底に埋め込まれたといえよう。

キリスト教への信仰に加え、吉野作造の内面を形成したものは、特異な世界体験だと思われる。吉野は東京帝大法科大学政治学科を首席で卒業後、梅謙次郎教授の斡旋で、1906年1月から3年間、清朝の重鎮(直隷総督)袁世凱の長男袁克定の家庭教師として中国を体験する。中国側の受け入れも仕事の中身も満足のいくものではなかったが、辛亥革命(1912年)直前の中国を目撃したことは吉野のアジア観に厚みを加え、後に「支那革命小史」(1917年)などの論稿として結実している。さらに1910年4月、32歳の吉野作造は東京帝大法科大学の助教授として3年3ヶ月間の欧米留学に出発した。ハイデルブルグ、リーデンハイム、ベルリンなどドイツ各地、ウィーン、パリ、ジュネーブ、ロンドンと欧州各地を動いた後、1913年6月に米国に渡り、ニューヨークから西海岸のシアトルに抜けて帰国している。今日的感覚からすれば、吉野の欧米留学には奇異な印象を受ける。研究者として特定の大学や研究室に帰属して学位を取得するという形の留学ではなく、比較的自由に欧米各地を動き回り見聞を深めているのである。第一次世界大戦が起こる直前の欧州を「民衆の目線」で体験したことが吉野作造の視座を形成したといえる。

オーストリア・ハンガリー帝国末期のウィーンで、生活物資高騰に抗議する労働者のデモを目撃し、ドイツの民衆の動きにドイツ帝国の揺るぎと社会民主党の台頭への予感を感じとり、パリで共和制の現実と民衆の政治談議を体験したことは、「民本主義」といわれる吉野の社会思想の形成に大きな意味をもった。「弱者が強者の物質的並に精神的桎梏を脱せんと共に努力すること」を意味する民本主義の基盤がこの体験を通じて構築されたといえよう。「知的三角測量」という表現があるが、中国、欧州という現場に立ち、三角測量のように日本の置かれた位置を相対的に確認する知的作業に「生身の人間」として情熱を燃やしたことが吉野作造を形造ったのである。

21世紀初頭状況への示唆

本稿を書くに当って、宮城県古川市の吉野作造記念館を訪れた。地元の生んだ吉野作造への敬意に包まれた展示に心を動かされた。また真摯な学芸活動を積み上げており、この記念館の主任研究員を務めた田澤晴子氏の著「吉野作造——人世に逆境はない」(ミネルヴァ書房、2006)は現在手に入り易い良質な吉野作造の入門書であろう。ただ、この記念館を訪れる者のうちどれだけの人が「社会科の教科書的知識」を超えたレベルで吉野作造が理解するであろうか。結局は、時代と向き合う緊張関係の中で、いかに吉野作造が呻吟し、苦闘していたかを感じ取る感受性を我々自身がどこまで持ちうるかということにあり、歴史に学ぶというのはそういうことだと思わざるをえない。

 初代防衛大臣となった人物が、広島長崎への原爆投下に関して「しょうがない」という言葉を使い辞職に追い込まれた。「しょうがない」は論理的思考のプロセスを断ち切る表現であり、複雑な思考に耐え切れなくなった時、思わず発する言葉である。したがって、言葉を生業とする政治家が発してはならない言葉なのである。しかし、21世紀初頭の日本においては、この「しょうがない」という気分、つまり「筋道立てて言っても仕方のないこと」という空気が蔓延しているといってもよい。

 9.11の衝撃を受けて、ブッシュ大統領は「これは犯罪ではなく戦争だ」と叫び、アフガニスタンからイラクへと軍事力を展開した。19人のテロリストが起こした組織犯罪という9.11の基本性格を吟味する余裕さえも失い、「逆上するアメリカ」に吸い寄せられるように、「アメリカについていくしかしょうがない」という思考停止に陥った。米国の中東戦略に連携すべきものと適切な距離をとるべきものを見極めることもなく、「対米配慮」だけを本音として自衛隊をイラクに送るという意思決定にさえ踏み込んだ。21世紀の国際社会を制御する秩序形成の在り方を論ずる余裕さえもなく、不条理な戦争を支持した。

2007年3月、朝日新聞は「イラク、報道と言論」として、3日連続の検証報道を試み、主要五紙の社説の比較、開戦時の賛成論者(山崎正和、田中明彦)・反対論者(池澤夏樹、酒井啓子、小生)による総括を紹介した。検証報道自体が珍しい日本では貴重な試みであるが、省察なくして進化はない。開戦を支持した論者が、いまだに「道義性は米国の側にある」「米不支持の危険性は大きい」という固定観念を脱却できず、世界史的に結論のでた事態についてさえ自らの洞察力の欠落を認めようとしない姿勢に驚きと悲しみを覚えた。21世紀の日本の進路が問われるべき局面で、吉野作造の後進にあたる東大政治学の系譜に立つ学者達が少数の例外を除いてイラク戦争への日本の関りを支持するか沈黙する経緯を目撃することになった。「曲学阿世の輩」と決め付けるのは酷であろう。各々が立場と自らの社会科学の正当性をかけて時代に関与しているのである。「政治的現実主義」なる思考に立ち、時代の空気に合わせて現実可能な選択肢に引き寄せられるのも分らなくもない。だが、吉野作造が懸命に時代に立ち向かった姿を心に置くとき、寒々とした現状に身の竦む思いである。何が違うのか。それはあるべき社会への強烈な問題意識であろう。つまり、歴史を前に進めようとする意思であろう。