連載「脳力のレッスン」世界 2007年8月号
ベルサイユ講和会議が今日に示唆するもの——(その2)時代の空気の作られ方
大正という時代を迎え、1910年代後半にさしかかった日本とは、明治維新から50年以上が経過した時点であった。黒船の衝撃を受け、日本自身が欧米列強の植民地にされてしまうかもしれない恐怖心の中で「攘夷から開国へ」、そして明治維新へと舵を切り歩んできた日本。「富国強兵」をテーマにひたすら明治という時代を作り上げた。その日本が、日露戦争を経て自信を深め、次第に「一等国」という意識を高めながら1912年に大正時代に入っていった。
明治維新を20歳前後の青年でリードした世代も既に第一線を退き、その頃の日本人の平均寿命が50歳台だったことを思うと、正に「維新も遠くなりにけり」という状況を迎えていた。元老となった黒田清隆(1900年8月死去)、西郷従道(1902年7月死去)、伊藤博文(1909年10月暗殺)、井上馨(1915年9月死去)、大山巌(1916年12月死去)と既に次々に舞台を去っていた。大正10年代に入り、残された元老は山県有朋(1922年2月死去)、松方正義(1924年7月死去)と西園寺公望だけであった。日露戦争(1904〜05年)からも10年以上が経過し、国家の存亡をかけた緊張感が後退して安定の中での「自尊心」が高まり、近隣のアジアに対しては「先進意識や優越感」が芽生え始める瞬間を迎えていた。
今日、アジア太平洋戦争の敗戦から60年以上が経過し、敗戦を20歳の成人で迎えた人も80歳を超した。戦争体験の風化は急速に進んでいる。明治維新にせよアジア太平洋戦争にせよ、現場で歴史の愁嘆場を体験した人間は物事に対して謙虚で慎重である。体験的に危険が見えるからであろう。何も知らない世代が無知なるが故の虚勢を張り、「落とし穴」に気付かぬまま、再び危険な時代の空気を作り出していく。
提灯行列とメディアの増幅
第一次大戦に参戦し、戦勝国になったという高揚感は尋常なものではなかった。青島陥落に当たって日比谷で行なわれた東京市主催の祝賀会は狂喜した市民が埋め尽くし、夜には6万人の提灯行列が続いた。新橋から日本橋まで、商店とビルは国旗とイルミネーションで飾られ、花電車が戦勝ムードを盛り上げた。犠牲者も少なく、容易に勝利を得たことによって、日露戦争の勝利以来、日本社会に醸成されてきた「驕慢な風潮」はより一層蔓延していった。大隈内閣は陸軍の二個師団増設、海軍の軍艦新造のための追加予算を公布するなど欧米列強に連なる軍事大国志向を高めていった。後に、1921年のワシントン会議以降、一度は「軍縮の時代」を迎えるのだが、昭和軍閥の専横をもたらす種は第一次大戦期に埋め込まれていたと思われるのである。
また、時代の空気を醸成する上で、メディアの果した役割も重いものだった。ベルサイユ講和会議にも20人のジャーナリストが特派員としてパリに乗り込んだが、その見識の低さは目を覆うものであった。例えば、朝日新聞は重徳来助なる記者を送り、署名原稿が紙面を飾るが、山東省や南洋の利権確保がすべてとする論調で、「支那も講和会議に出る権利がある、然し日本の東洋における地位は人の知る通りだから、支那も講和会議において万事日本に追従するが、又支那にとりての利益であるだろう」(東京朝日1919.1.12付)という程度の認識であった。
したがって、「国際連盟創設」などはまともにとりあげられるテーマではなかった。重徳は「国際連盟という結構なものができれば、日本の対外八方美人主義も或はよいかも知れぬが、然らずんば日本は実を疑われることになる。故に日本は天下の大勢を看破し、対世界政策というものを先ず確立し、右顧左眄を早速やめねなければならぬ」と述べる。空虚な言葉を並べた自己主張で偏狭なナショナリズムを刺激する手法はいつの時代も変わらぬ定番である。
「米国製中国人」の登場
ベルサイユ講和会議に臨んだ日本にとって驚きだったのは、パリに登場した中国代表団のしたたかさだった。光を放ったのは顧維鈞と王正延であった。顧維鈞はコロンビア大学卒業の31歳で、卓抜の英語力と巧みな話術は評判を呼び、「ウエリントン・クー」の別名で注目を集めた。後に外務大臣・国務総理となり、一九五一年のサンフランシスコ講和会議の時は中国(国民政府)の全権代表であった。また王正延もエール大学卒の米国留学組であった。
当時の中国は南北内戦の最中であり、北方派(北洋軍閥)といわれた北京政府は袁世凱が1916年に急逝、翌年には満州の張作霖が独立を宣言し混迷を深めていた。南方派も孫文が地方軍閥に主導権を奪われて失脚して内紛続きであり、中国全体が四分五裂の状態にあった。ところが、この南北の分裂を修復する転機となったのが、皮肉にもベルサイユ講和会議の山東問題であった。中国全権団の顧維鈞は北京政府の駐米公使であり、王正延は南方派の広東参議院議長であった。
中国は第一次大戦の開戦後、当初は中立宣言を守っていたが、3年が経過した1917年8月になってドイツに対して宣戦を布告、既に極東からドイツの姿が駆逐された後で参戦することで講和会議に列席する権利をえた。そして講和会議に登場するや、宣戦布告以前にドイツと結んだ協定はすべて無効と主張、したがって日本の山東権益継承も拒否するという姿勢を鮮明にした。中国の強気な主張の背後には米国がいた。すなわち、「民族の自決と領土保全の原則」が主張の根拠であり、それは新興の米国を率いるW・ウィルソンの「14か条」の精神であった。つまり、中国は米国との意思疎通の下で動いていた。結局、「国際連盟に加盟しない」という日本の揺さぶりと、「人種差別反対決議」を持ち出した牽制が米国の妥協をもたらし、日本は山東利権を確保した。このため、中国は講和条約への調印を拒否し、この怨念が抗日運動「五・四運動」の引き金となった。そして、ベルサイユ会議に存在感を示した「米国製の中国人」の背後から中国を支援した米国の対日観に深い影を投げかけることとなった。
講和会議にウィルソン米大統領の随員として参加していたのが、後に対日戦争を指揮したF・D・ルーズベルトであった。彼は「勝者が領土や賠償をとるべきではない」というウィルソンの「勝利なき講和」構想に共鳴していた。海軍次官補として1913年から第一次大戦を跨ぐ7年間の任務についていたルーズベルトは、日本軍の南方攻略から青島占拠、シベリア出兵という展開に警戒心を高め、講和会議での日本の山東利権への執着と国際連盟構想への揺さぶりを苦々しく見つめていた。このルーズベルトの視線が20年後の真珠湾に向う危機の時代における彼の対日観に繋がったのである。
歴史の皮肉とでもいおうか、31歳で中国を代表しベルサイユ講和会議で熱弁をふるった顧維鈞は98歳で1985年にニューヨークにおいて死去するが、その間に先記のごとくサンフランシスコ対日講和会議の国民政府代表として日本の戦後処理に関して米中間の合意形成で重要な役割を演じ、国際司法裁判所の判事も努めた。
「日米関係は米中関係である」と外交評論家松本重治は再三言及していた。戦前から上海でのジャーナリストとしての体験を踏まえ、日米中の関係を凝視してきた松本の言葉は重い。つまり、日米関係が二国間関係では完結せず、必ず日米関係の谷間に中国という要素が絡みつくことを示唆していたのである。この構図は今日も引き継いでおり、米中関係の密度が再び21世紀の日米関係に重い影響を与える局面を迎えている。
中野正剛の憤激
雄弁家として国民的人気を誇り、後にファシズムを主張して東条英機と対立し1943年に自決した中野正剛も、雑誌「東方時論」の特派員としてベルサイユ講和会議を目撃した。彼は、大隈内閣の早すぎた参戦による山東攻略や対中国21か条の要求には反対であった。朝日新聞記者としての中国での取材などを通じ中国の南方派に深い人脈を有し、興味深いことにパリで中国代表の王正延と面談している。
日本の対中国政策を激しく批判する王正延に対し、中野は怒りを隠さず反発した。中野ほど中国に理解と共感を有していた人物は少ないと思われるのだが、何故彼は怒ったのか。彼の怒りの質を注視すると「支那は何故に日本が獲得せし利権のみを狙わんとするか」という言葉に行き当たる。つまり、英米の支配は容認し、米国を後ろ盾として日本を排斥しようとする中国への反発であった。
講和会議が始まって1ヶ月、半年近くの長丁場となった会議が半分も経過しない時点で中野正剛は決然とパリを去った。「山東問題では被告席に立たされる、人種平等案は一蹴される、割譲を要求した赤道以北の旧独諸島は委任統治となって軍事施設を禁止される、等々、一として憤慨の種ならざるはない」(猪俣敬太郎「中野正剛の生涯」、黎明書房、1954年)という心情であり、怒りは日本代表団の弱腰、軟弱、主張の弱さに向けられ、怒髪天を衝く勢いであった。その怒りが「講和会議を目撃して」(東方時論社、1919年)という著書になり、一大ベストセラーとなって政治家中野正剛の道を開いた。
中野の主張に「国士」といわれる人たちの論理が象徴されており、今日でも「自虐史観を脱して民族の誇りを取り戻した国民の歴史を描き出そう」と主張する人たちの論理にも投影されている。それは「欧米がやっていることを日本がやって何故悪いのだ」という主張である。そして苛立ちは「欧米にだけは卑屈に秋波を送り、日本を排除しようとする中国」に向けられることになる。歴史は後追い的評価できない面があるが、日清・日露戦争の経緯の中で国民に醸成された「時代の空気」を突きぬいて一歩前にでて世界史をリードするような視界をもった指導力が日本に生まれなかったという事実に粛然とするしかない。植民地主義を超えた新たな世界秩序を模索する側に日本が立っていたならば、我々は20世紀前半の日本の歴史より誇り高く振り返っているであろう。
愛国者を自認する人は国を愛するあまり国家の自己主張を期待し、「不退転の決意」を叫びがちである。だが愛国者が必ずしも国を救わない悲しみを味わい尽したのが昭和前半の歴史であった。世界史の文脈を見失った偏狭なナショナリズムのもたらす災禍を我々は忘れてはならない。
もちろん、当時の日本にも極めて少数ではあったが「時代を見抜いていた人」もいた。例えば、敬服すべき眼力をもって石橋湛山は発言している。「我が国の青島割取は実に不抜の怨恨を支那人に結び、欧米列強には危険視せられ、決して東洋平和を増進する所以にあらずして、却って形勢を切迫に導くものにあらずや」そしてその結果は「国民に限りなき軍備拡張の負担を強ゆるのみならんや」(東洋経済、1914年11月15日号)
そして、吉野作造も懸命の論陣を張っていた。そのことは次回に触れたい。

