連載「脳力のレッスン」世界 2007年7月号
ベルサイユ講和会議が今日に示唆するもの——(その1)集団的自衛権の陥穽
20世紀の日本を振り返る時、どうしてアジア太平洋戦争という悲劇に引き寄せられたのかという疑問が頭から離れない。東条英機にバトンが回った時点では、「他に選択肢なし」というところに追い込まれていたともいえる。やはり、我々は第一次世界大戦からベルサイユ講和会議前後の1910年代の日本の政治・外交を再考し、歴史の筋道を見つめ直すべきであろう。しかも、現下の21世紀初頭の日本の状況は、「同盟責任を果すためにイラク戦争に」という選択において、あるいは「集団的自衛権」への傾斜という意味で、時代の空気が1910年代と近似していることに気付く。
ベルサイユ講和会議とは何だったのか
1919年1月18日、パリにおいて第一次大戦後の世界秩序を決める「ベルサイユ講和会議」が開会された。1914年6月オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がサラエボで暗殺された事件を引き金とする第一次世界大戦は、1918年11月のドイツ帝国の崩壊(共和国宣言)を経て、ようやく休戦協定が実現した。4年3ヶ月におよぶ戦禍によって約850万人の兵士と約400万人の市民が命を失った。この戦争に関わった27カ国の戦勝国が、ドイツに対する講和と戦後の秩序と権益を巡り一堂に会したのがベルサイユ講和会議であった。この戦争により世界史は本質的な意味で20世紀を迎えた。19世紀を彩った4つの帝国が消滅したのだ。オーストリア・ハンガリー帝国、ロマノフ王朝の帝政ロシア、欧州の潜在脅威だったオスマン・トルコ、そしてドイツ帝国である。帝国の時代が後退し、20世紀を動かすキーワードである「国民国家」「民族自立」「社会主義」が浮上していた。
しかし、「遅れてきた植民地帝国」たる日本にとっては、列強に伍して国際会議に参加する処女体験がこのベルサイユ講和会議であった。日露戦争後のポーツマス会議など、二国間の交渉という経験はあったが、米・英・仏の首脳に伍して「一等国」として国際会議に臨むことは初めてだった。当時の日本は原敬内閣であったが、大陣容の代表団でこの講和会議に臨んだ。首席全権の元老西園寺公望、実質的全権の役割を担った次席全権牧野伸顕男爵(明治の元勲大久保利通の次男)の下に、やがて昭和外交史において日本の命運を担う人物が随員として名を連ねていた。西園寺の随員として近衛文麿、牧野の秘書役として娘婿でもある吉田茂の他、松岡洋右、重光葵、有田八郎、芦田均、野村吉三郎、斉藤博などの面々である。
第一次世界大戦への日本の関与は正に「漁夫の利」というべきものだった。当時の日本外交の基軸であった「日英同盟」を背景に、英国の「東シナ海を航行するイギリス商船をドイツの武装船の攻撃から守って欲しい」という要請を受けた日本は、英国の外相グレーの「日本の参戦は望まず」という意思表示にもかかわらず、英国政府の要請を遥かに超える行動に出た。1914年8月ドイツに宣戦を布告するや、東シナ海どころか南洋にまで艦隊を展開、ドイツの支配下にあったカロリン、マーシャル、マリアナなどの島々を占領し、さらには中国山東半島のドイツ租借地に進撃、同年11月には青島要塞を攻略、ドイツ軍守備隊を降伏させた。今日的表現でいえば、「集団的自衛権」の発動として「同盟責任」を果すことを建前としつつ、「欧州の大禍は日本の国運を発展させる天佑」(元老井上馨の言葉)との本音をあからさまに展開したといえよう。
第一次大戦での日本軍の戦死者は300人であった。敗北した同盟国の戦死者はドイツの177万人、オーストリア・ハンガリーの120万人など合計339万人、勝利した連合国も英国91万人、フランス136万人、米国10万人など総計513万人であったことをみれば、ほとんど消耗することなく「戦勝国」の立場を確保したことになる。この時点が日本近代史の岐路であった。「ドイツ帝国をアジアから放逐する」ことに留まらず「ドイツに代わって、列強のアジア支配の一角に食い込む」という道を歩み始めたのである。孫文が、神戸で有名な「大アジア主義」についての講演を行なったのは1924年であったが、孫文が日本国民に対して問いかけた「日本は西洋覇道の番犬となるのか、東洋王道の干城となるのか」という設問は、その時点から遡る10年の日本が西洋覇道を追う路線に踏み込み始めたことへの強烈な一撃であった。
対華21か条の要求とシベリア出兵——日本が増長し始めた時
20世紀前半の日本の迷走は、第一次大戦への関りを通じてその種子がまかれたことに気付く。「成功体験」の中に増長と弛緩という敗北への萌芽が見られる。青島攻略という勢いに乗じ、1915年1月、中国に対して「対支21か条要求」を突きつけたのである。これこそ日本がアジアの被抑圧民族の側に立つのではなく、列強模倣の「植民地主義国家」に堕したことを明らかにしたものであった。21か条要求とは、山東省でドイツが持っていた権益の継承を主柱とし、満蒙に対する要求や中国政府に日本の軍事・財政顧問を置き、中国警察に日本人を入れることなど「敗戦国」に対する要求のような内容であった。中国政府はこれを拒否したが、日本政府は一部修正を行なったものの最後通牒を突きつけ、同年5月9日に強引に受諾させた。この5月9日が「国辱記念日」として中国人の心に刻まれ、その後の日中関係の障壁となった。
さらに、1918年8月、欧州での大戦が終局を迎えつつある時、日本はシベリア出兵宣言をした。これも、英国の出兵要請を受け、「集団的自衛権」の行使として、ロシア革命後の極東ロシア情勢を背景に「チェコ軍救援」を目的として兵力を展開したことになる。このシベリア出兵も本来の目的が意味を失い連合国が撤兵してからも日本だけは居座り続けた。結局、「反共産主義勢力による緩衝国家の樹立」を図ったものの失敗、日本がシベリアから完全に撤退したのは1922年10月であった。動員した兵力は12.6万人、ベルサイユ講和会議と並行する形での4年3カ月に渡る海外出兵は、軍事力を背景にした国益伸張の道を確立する契機となった。
第一次大戦への日本の参戦と対華21か条の要求を決断したのは大隈重信内閣(1914年4月〜16年10月)で、外相は加藤高明であった。1914年7月28日に欧州で戦端がひらかれると、8月8日には前日のグリーン駐日英大使による「参戦しない形での限定的武力援助」の要請を受けて、早稲田の大隈私邸での閣議が開かれ、大隈首相自らが「日英同盟に基づく義戦」と日清戦争後の「三国干渉に対する復讐戦」を理由に日本の参戦を決意した。集団的自衛権が当事者の英国をも当惑させる形で行使されたのである。
国家が国家である限り「自衛権」のない国家などありえない。個別的であれ集団的であれ、自衛権を選択・行使する権利を有する。結局、その時点での政府・国民が叡智をもってどう判断するかである。とくに「集団的自衛権」は国家の安全保障に関して複雑な変数を加えることであり、時に同盟責任の名の下に、都合よく拡大解釈されたり、意図せざる要素によって紛争に巻き込まれる危険を招来することを認識しなければならない。それ故に、戦後日本は「集団的自衛権」の行使を抑制してきたのである。
さて、ベルサイユ講和会議に臨み、首相原敬は師匠格ともいえる西園寺公望をくどき落として主席全権としてパリに送りだしたものの、西園寺の講和会議における存在感は希薄なものだった。西園寺自身は21歳から約10年間ものフランス留学体験を持つ国際人であった。だが、日本に世界潮流を洞察し、次の世界秩序を構想する視界をもった指導力が存在しなかったといわざるをえない。
近衛文麿の見たベルサイユ講和会議
ベルサイユ講和会議の3人の主役は、議長を務めた78歳の老雄フランス首相クレマンソー、英国の挙国一致内閣を率いた首相ロイド・ジョージ、そして米国大統領ウィルソンであった。それぞれが大戦後の秩序に関して激しく国益を自己主張したともいえる展開の中で、歴史的に際立った足跡を残したのはウィルソンであった。国家間の利害を調整する国際機関としての「国際連盟」構想を提起したのである。結局、米国議会が米国の国際連盟加盟を拒否してウィルソンは憤死するような結末を迎えるが、それでも世界のリーダーとして台頭しつつある米国の世界秩序へのビジョンを提示する試みは重いものだった。日本の国際連盟に関する理解は、「白人支配確立の政治的道具」「将来の主権侵害の火種」程度のものであり、「国際連盟不加入」をちらつかせながら、米国への牽制のために連盟規約に「人種差別反対条項」を加えることを要求し、それを交渉材料として、日本の本音であった「山東利権の継承」を勝ちとった。そのことは、日本政府からの訓令「帝国の直接利害関係を有せざるものについては、特に必要なき限りこれに容喙せず、大勢に順応して可なり」に象徴されている。
1919年6月28日、講和会議調印の日、議長クレマンソーは「ここに平和は達成された」と宣言したが、中国は日本の山東利権継承を不服として調印を拒否、反日感情を決定的なものとし、日本排斥の原点ともいえる「五・四運動」に点火させることとなった。この瞬間、日本の「植民地主義的野心」に対する米国の猜疑心を芽生えさせ、やがて中国を巡る日米衝突の伏線ともなったのである。
後の首相近衛文麿もベルサイユ講和会議を体験した。28歳の近衛はその体験を「戦後欧米見聞録」(外交時報社刊)として1920年に出版した。この本で近衛は、大戦後の荒廃した欧州と列強首脳が一同に会した講和会議を目撃し、青年らしい感受性豊かな報告を行なっている。とくに「講和会議所感」として会議を総括した文書は一読に値する。
所感1は「大国の横暴」「力の支配」を見せ付けられたという思いである。列強のしたたかなパワーゲームに圧倒された衝撃である。また、所感2としては「国民外交」「公開外交」の時代の到来を受けて、広く国際世論に訴えるプロパガンダ機関の必要性を痛感したこと。所感3は外交官制度の刷新であり、人材登用の門戸開放と外交家としての人材育成の必要性を思い知ったこと。そして所感四として「日本人の世界的知識と輪郭を養成する必要」に言及し、「我国民は支那問題等自国に直接利害関係ある場合には非常の熱心を以って騒ぎ立つるも、東洋以外のことなれば我不関焉の態度を採る傾きなしとせず、現に今度の会議に関係せる或外人は日本人を評して、彼等は利己一点張りの国民なり、世界と共に憂をわかつべき熱心も親切もなき国民なりと申したりとか」と述べている。
これらの所感は今日の日本にもそのまま当てはまるとの感慨を抱かざるをえない。安倍政権が語る「主張する外交」は国民受けするフレーズだが、その主張は近隣の国との関係構築に失敗していることによる偏狭な自国利害の主張であることが多く、問題を本質的に解決するための世界システムやルールを創造することへの関心ははなはだ希薄である。

