寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2007年2月号

『東方見聞録』『ガリヴァー旅行記』、そして日本のイメージ

マルコ・ポーロの『東方見聞録』、1298年に書かれたこの書物が、西洋社会における日本のイメージ形成に果たした役割は大きい。「黄金の国ジパング』というイメージがその後の大航海時代を開くモチベーションになったという意味もあるが、実際に東方見聞録を読んでみると、日本人にとっては失望を禁じえない「偏見と誤解」に満ちた内容になっていることに気付く。そしてこの偏見と誤解は今日も引きずっているといわざるをえない。

マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか

フランシス・ウッド女史の書「マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか」(1995年、邦訳粟野真紀子、草思社)は衝撃的だった。1271年、ヴェネチア商人の息子で17歳だったマルコ・ポーロは父親と叔父とともにコンスタンチノーブルを経て、モンゴル帝国の本拠地カラコルムを訪れ、フビライ・ハーン(在位1260年〜94年)と面談、聡明な少年だったマルコは皇帝フビライに大いに気に入られ、皇帝の使節としてモンゴルの支配下にあった中国各地をめぐり、江蘇省揚州の知事まで務め、1295年にヴェネチアに帰着した、というのが『東方見聞録』が書かれる背景の史実とされてきた。

それに対して、中国での研究体験と現存する『東方見聞録』の手稿と刊本の分析を通じて重大な疑問を投げかけたのがウッド女史である。当時の中国側の記録にマルコ・ポーロ一行について何一つ残されていないのは何故か、さらに実際に中国に行ったのであれば、『東方見聞録』に万里の長城や纏足や茶のことが書かれていないのは何故か、などの疑問が展開され、結論として、『東方見聞録』は実体験に基づく旅行記ではなく、幾人もの共同作業によって作りあげられた「地誌」(ヴェネチアより東の地域に関する案内書)とする見方を提示している。納得のいく見解だと思う。

「見てきたようなウソ」であっても、13世紀後半から14世紀初期にかけてのヴェネチアおよび欧州で、東方への関心と地誌への需要が高まっていたことを示すもので、やがてコロンブスも『東方見聞録』を携えて大航海へと船出していくのである。700年以上もの間、世界中が欺かれていたことになるのだが、それでも『東方見聞録』が与えた影響はあまりにも大きかった。そして、つくり上げられた日本のイメージは決定的だった。

ここに描かれたジパングは「住民は色が白く、文化的で、物質にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまり訪れず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ」とされている。黄金伝説はエスカレートし、「宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、4センチの厚さの純金の板をしきつめている」となる。

驚いたことに、『東方見聞録』は「元寇」のことをかなり正確に伝えている。フビライがジパング征服を意図して大艦隊を派遣したこと、暴風雨によって大艦隊が難破し、壊滅的な打撃を受けたことなどを記述している。「元寇」は1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度にわたり実行されたが、ちょうどこの間の1271年から95年までがマルコ・ポーロの「アジア・中国訪問」とされる期間であり、元寇の話を耳にしたのであろう。

また、ジパングについて極めて歪んだ記述もしている。「牛、豚、犬、羊の頭の形をした偶像や頭が4つ以上もある偶像」などが信仰の対象になっているとされ、「偶像の前で行われる儀式たるや、実に悪魔的で、とても紹介することなどできない」、さらに、「ジパングでは、敵を捕虜にしたとき、身代金が払われないと、自宅に親戚や知人を呼び集め、捕虜を殺して肉を食べてしまう。世界にこれほどうまい肉はないといっている」とされ、野蛮で退嬰的な日本というイメージが提示されているのである。

ところで、あのスウィフトの『ガリヴァー旅行記』にも日本が登場する。1726年に書かれたこの小説は、子供のころ誰もが心を躍らせた記憶をもつものだが、3回目の航海で日本をも訪れたことになっている。しかも、訪問した日時が特定されており、1709年の5月末から6月にかけてとある。五代将軍綱吉の時代の終わりの年で、赤穂浪士の討ち入りから7年後、幕府が新井白石を登用したという年である。

『ガリヴァー旅行記』によれば、「不死人間」が住むラグナグ島を後にしたガリヴァーは日本に辿り着き、江戸で将軍に拝謁し、長崎まで陸路の旅をしている。日本がオランダとの交易をしている国で、キリスト教を禁止し、「踏み絵」という儀式が存在することなど、かなり正確な情報が紹介されており、『東方見聞録』から400年以上を経て、西洋での日本についての認識も少しは深化したことを思わせるが、それでも極東の謎めいた国というイメージは変わっていない。

固定観念を脱する難しさ

さらに、それから300年近くを経て、西洋の日本理解は深まったであろうか。19世紀の後半以降、情報化の進展、交通手段の進化によって相互理解の基盤はおおいに強まったといえる。だが、意外なほど固定化されたイメージに変化はないことに気付かざるをえない。1980年に書かれたE・ウィルキンソンの「誤解——ヨーロッパVS日本」(徳岡孝夫訳、中央公論社)は興味深いものであった。EC(現在のEU)の代表部高官として5年間の日本滞在経験をもつウィルキンソンは、歴史の中での文献を研究して欧州の日本に対するイメージを検証した結果、300年以上も昔の日本観・日本人観が連綿と残像をとどめ、パターン化された形で存続していることを指摘していた。

一つは、中国との混同であり、アジア一括りの決め付けである。欧州において日本を中国の一部と認識している人は今日現在でも少なくない。私も英国のホテルのバーカウンターで、紳士風の男から「日本といえば、ダライ・ラマは元気か」と聞かれて仰天した記憶がある。

二つは、父祖伝来の固定された古いイメージが、その時の都合で引き出され、プラスとマイナスのバイオリズムが繰り返されるというものである。例えば、日本人のイメージとされる「集団的」は「盲従」と裏腹であり、「規律正しさ」は「軍隊的」に、「勤勉」は無機的な「猿真似」というイメージに反転する性格を内在させているというのである。

ウィルキンソンは「人は、事実を見ることによって驚いたり怯えたりするのではない。自らの見方と空想によって驚き、怯えるのである」というエピクテートスの言葉を引用していたが、いかに日本に関する新しい情報に出会っても、状況の変化で「埋め込まれた記憶」が甦り、「極端から極端に走る反理性的、分裂的な日本人」というイメージが跋扈するのである。

もっとも、イメージは相関的なもので、我々日本人の他民族、他地域に関するイメージも客観的とはいえず、偏見と固定観念に満ちたものだともいえる。固定観念や偏見から解放された視界を開くことは容易ではない。

最近、欧米では「ジャパン・クール」などといわれ、日本の食文化や音楽・映像・アニメなどの創造力を高く評価する動きが顕著である。19世紀末の欧州での「ジャポニズム」のブーム再来を思わせるものがあるが、文化力の輝きをもって世界に敬愛されることは極めて重要であり、一過性のブームに終わらせない努力が求められよう。そして、浮世絵に代表される江戸文化の蓄積が「ジャポニズム」の起爆力になったごとく、平和で安定した戦後の半世紀を背景に「ジャパン・クール」の素材が産み出されたことを考えるならば、筋道だった平和な時代を創造・維持することが大切なことに気付く。

西洋の「対置概念としてのアジア」の設定という枠組みの中で形成されてきたアジア観・日本観を気にすることよりも、心に置くべきことは自らの主体的努力以外にイメージを変える方法はないということである。まずは、近隣の国々から信頼され尊敬される国を作りあげる営為を積み上げることである。