寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2006年9月号

デンマークという国

内村鑑三が「デンマルク国の話」を書いたのが1911年のことだから実に95年も前のことになる。内村は、デンマークが1864年のドイツ・オーストリアとの戦争に敗れ、失意の底から立ち直った過程に注目して、感動的な話を紹介している。つまり、ビスマルク率いるプロイセンがウィルヘルムT世をドイツ帝国の皇帝に押し上げていく中で、敗戦国として南部の肥沃な土地を奪われてしまったデンマークの悲劇を国民的指導者エンリコ・ムリオス・ダルガス(1828〜94)が克服していく話である。「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大な民である」と内村は述べる。まるでそれから34年後に訪れる日本の敗戦を予感していたかのごとき内村の目線の確かさは心に沁みる。

ダルガスは「ユトランドの荒野を薔薇の花咲くところへ」というフレーズを掲げて、農業と畜産と植林によってデンマークを豊かな国へと蘇えらせていく。「牛乳をもって立つ国」としての姿を整えていくのである。ダルガスの父方の先祖はフランスのユグノー派(カルバン派キリスト教徒)の子孫であった。つまり、16世紀後半のフランスで吹き荒れた宗教戦争(ユグノー戦争)を背景に、カトリックの弾圧によって欧州各地に逃れたユグノー派の人々が「自由と熱信と勤勉」を移植して失意のデンマークを支えたのである。この話は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」(1905年)にも通じるもので、克己奮励の倫理、質素倹約という強い精神性をもって経済活動に立ち向かった人達の情熱の背景には何らかの宗教性を見てとることができる。

敗戦で国土の3分の1を失い、人口も250万人から170万人にまで減少したデンマークに対し、ダルガスは「外に失ったものは内で取り戻す」と呼びかけ、1866年に「原野開発会社」を設立、ひたすら開墾地を守る防風林を植林する事業に邁進した。農地を増やし協同組合方式を採用して、付加価値の高い農業を目指して酪農に転換していくことを通じ、「農産物輸出大国デンマーク」の礎を築いたのである。

豊かで存在感のある国

現在、日本の食料自給率はカロリーベースで40%であるが、デンマークのそれは300%とされる。とりわけ、豚肉や鶏肉や酪農製品の輸出国として欧州の胃袋を支えており、農業を基盤にした豊かな社会を実現している。人口540万人の小国のデンマークだが、2004年の1人当たりGDPは4.7万ドルと英国の3.6万ドル、ドイツ・フランスの3.4万ドルよりも1万ドル以上も高い水準にある。

エネルギー政策においても際立った特色を有し、電力消費の2割を風力発電で賄う目標を掲げ、驚くほどの情熱で取り組んでいる。「アンデルセンの国」というイメージが強く、人魚の像が代表的観光スポットとされるが、実際に訪れて人魚の像を背景に写真を撮ると、発電用の風車群が写ってしまうほど風車が目立つ。風力とバイオ燃料、すなわち自然エネルギーによる供給に重点志向しているのがデンマークの特色なのである。必ずしも成功しているとも言い切れないが、エネルギーの外部依存を極力避け、再生可能エネルギーによる供給を志向するという政策思想は注目に値する。

国の在り方を考えるとき、この国の個性には考えさせられる。消費税率が25%と驚くほど高い。教育・福祉・医療が公的に負担される一方で、いわゆる「高福祉・高負担」の構造になっているのである。しかも、注目すべきは海外経済援助の大きさであり、国民1人当たり海外援助額で日本の3倍、世界一である。国連が目標としている「国民所得の1%」という海外援助水準を実現している唯一の国であり、国際社会の敬愛を集めている。「共生への責任」という表現を耳にするが、競争主義・市場主義が吹き荒れる世界潮流の中で、腰の据わった覚悟がなければ持続できることではない。国家の放つメッセージとは、その強い戦略意思によって伝わるものなのである。

コペンハーゲンを訪れて、不思議な印象を抱くものの1つがチボリ公園である。世界のエンターテインメント・パークの原点とも言われるこの公園は1843年に開園している。あまりに有名な公園だけに期待して訪れると、その小ささに驚かされる。その外延を散歩したが、せいぜい250メートル四方で後楽園遊園地どころか浅草花やしきもない広さである。巨大な絶叫マシーンもなければ、手の込んだアトラクションもない。ただ、実際に訪れてみるとほのぼのとして楽しい。数十軒ものレストランと夜店のような商店やゲームコナーが並び、散策して美しい花壇を味わうだけで十分に楽しめるのである。多くの市民が「年間パス」を買って大切にこの空間を楽しむ「参加型のパーク」として特異な光を放っている。

日本とデンマークとの関係

実は、日本とデンマークは因縁浅からぬ関係を有す。1870年(明治3年)、前年が五稜郭の戦いで、戊辰戦争の硝煙がまだ消えぬ局面において、日本は「ウラジオストック−長崎」「上海−長崎」という2つの電信用の海底ケーブルの敷設を決定した。翌年の1871年(明治4年)には早くも完成し、日本と欧州は電信で繋がれた。この工事を請け負ったのがデンマークのグレート・ノーザン・テレコム(日本名「大北電信」)であった。「コペンハーゲン−ラトビア−モスクワ−イルクーツク−ウラジオストック−長崎」というルートであった。

むしろ日本国内での電信線の敷設のほうが手間取り、1870年の東京−横浜間で最初の電信取り扱いが開始されたが、東京−神戸間は1872年(明治5年)10月、長崎までの電信線が完成したのが1872年2月であった。欧州から長崎までのケーブルのほうが先に完成していたのだから皮肉な話である。建設技術の稚拙さもあるが、電信はキリシタンバテレンの魔法だという、民衆の妨害行為も障害となった。

この時、デンマーク政府の特使J・シックとの交渉に当たったのが、外務大輔の地位にあった「日本の通信の父」ともいわれる寺島宗則であった。旧名松木弘安という薩摩藩出身の医師であった寺島は、1862年(文久2年)の幕府の遣欧使節(竹内下野守一行)の一員として欧州を体験、パリで電信所などを見学して眼を開かれ、維新後は国営電信の立ち上げを一任されることとなった。諸外国の事例を深く研究し、大北電信との交渉では、「デンマークの独占を拝し」「免許を30年間に区切り」「日本国内での内陸敷設は日本自前で行うこと」など、国益と大局を誤らない交渉力をみせている。

情報通信の分野におけるデンマークの先進性は今日にも引き継がれているといえる。「ネットとメディアの融合」という言葉が、次世代の放送分野のビジョンのごとく語られ、ホリエモンをはじめとするネット関連ビジネスの関係者が放送事業に参入しようとするときのお決まりのフレーズとなっているが、現実にネットとメディアの融合において世界の先行モデルとなっているのが「デンマーク・ラジオ」である。

英国のBBCや日本のNHKのような公営放送事業で、決してラジオだけの会社ではなく、多チャンネルのテレビ放送も展開している。このデンマーク・ラジオの事業にソフトウェアとシステムサポートで参入している日本SGIの和泉法夫社長との縁で、コペンハーゲンのデンマーク・ラジオ本社を訪問する機会を得た。フルデジタルを採用したデーターベースともいうべき「アーカイブス(デジタル・ライブラリー)」への投資が充実していて、番組ソフトの制作・配信・利用から視聴者の参画までが柔軟かつ多様に展開できる基盤が構築されているという印象を受けた。インターネットの基本性格が米国の軍事情報ネットワーク(ARPAネット)に由来するごとく、ITは「米国主導」の印象が強いが、次世代ITを志向する時、意外なほど欧州に参考となる先行モデルがあることに気づく。