寺島実郎の発言

HOME > 寺島実郎の発言 > 連載「脳力のレッスン」 > インド——ユーラシア・パワーゲームの中心に躍り出たしたたかさ

連載「脳力のレッスン」世界 2006年7月号

インド——ユーラシア・パワーゲームの中心に躍り出たしたたかさ

30年前、ロンドンで暮らしていた頃、時々ハイドパークのスピーカーズ・コーナーを訪れた。主張したい意見のある人間が不特定の聞き手に熱弁をふるう場で、英国流民主主義を理解する場だと何かの本にあった。だが、実際にスピーチしている人の多くはインド人で、何とも強引な理屈を展開している姿が印象に残った。その後、世界を動き回ってきたが、様々な局面でインド人のしたたかさに直面した。

そのインドがユーラシアのパワーゲームの中心に躍り出てきた。21世紀の世界の成長エンジンといわれるBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一翼を占め、経済面で注目されるが、国際政治においても驚くほど存在感を増している。

多元外交で揺さぶるインド

本年3月には米ブッシュ大統領が訪印、原子力協定で合意、世界を驚かせた。「@インドが保有する22基の原子炉の内、14基を国際査察の対象とし、軍事用、高速増殖炉、処理・濃縮施設は対象外とする、A将来の核開発の軍民区分は、インドが決定し、査察については国際原子力機関(IAEA)と協議する、B米国は民生用の原子力技術を供与する」というものである。一見、世界の原子力管理体制から孤立してきたインドを国際的枠組みに回帰させる方向付けともいえるが、首を傾げたくなるような米国の譲歩と「ダブルスタンダード」ともいえる矛盾が内在している。

つまり、この協定によって米国はインドの核保有を実質的に容認し、核不拡散条約(NPT)に非加盟のインドに対して原子力技術を供与する政策を明らかにしたことになり、「インドを特別扱いする米国」という姿が浮き彫りになった。米国のこれまでの核軍縮政策にも矛盾し、世界のNPT体制を空洞化させる政策転換があっけなく表明されたのである。国際世論や国際核管理体制を無視して核装備を強行してきたインドに対して、既成事実を容認することは、今後の世界の原子力秩序に禍根を残すであろう。「インドの核装備はよいが、イラン、北朝鮮はだめ」という論理が通用するはずがない。

これほどまでにインドの取り込みを図る米国の動きの背景には、巧みに米国を牽制して優位ポジションを取るインドの戦略がある。05年以降だけでも、中国温家宝首相(05・4)、日本小泉首相(05・4)、英国ブレア首相(05・9)、仏国シラク大統領(06・2)、米国ブッシュ大統領(06・3)、豪州ハワード首相(06・3)と要人の訪印が続き、それぞれがインドとの経済および原子力分野での協力の深化に踏み込んだ。シン首相も懸案のパキスタンとの関係改善に加え、ロシア(05・12)やASEAN(05・12)を歴訪し外交攻勢を強めた。インド外交を象徴するのが、「上海協力機構」へのオブザーバー参加である。上海協力機構は、中国とロシアを中核として中央アジアの国々を巻き込んだ地域協力機構であるが、05年にインドとイランがオブザーバー参加して注目を集めた。本年6月に創立5周年の首脳会議が予定されており、インドとイランの正式参加が噂されていたが、見送りになったという。米国に対してあまりに刺激的という判断だが、確かに上海協力機構は「反米同盟」でこそないが、ユーラシア大陸における「米国の一極支配を歓迎せず」という意思を共有する機構という性格もあり、米国はこの連携に楔を打ちたいとの思いが強い。そこを逆手にとったインドの戦略が際立つのである。

決してインドの政権基盤が安定しているわけではない。04年の総選挙を経て国民会議派を中心とした統一進歩連合(UPA)が政権にあるが、下院総議席(545)の過半数に及ばない少数与党(06年6月現在221、うち国民会議派145)で、議会運営などで苦しみながらも次第に評価を得ている。マンモハン・シン首相が政権を率いるが、影の実力者は国民会議派総裁で、91年に暗殺されたラジブ・ガンジー元首相の妻、ソニア・ガンジーである。イタリア人である彼女が夫の意思を継ぎ、表舞台にシン首相を立たせる形で政権を支えており、出処進退の潔さと明晰な指導力で国民の支持を集めている。インド独立運動の中核であった国民会議派が久々に政権与党として甦っていることが注目されるのである。

日本とインド

インドは日本を映し出す定点座標のような存在である。近代史における日本とインドとの関係を辿るならば、世界史における日本の立ち位置が透けてみえる。私は「1951年のサンフランシスコ講和条約にインドは署名しなかった」という事実を日本人は再考すべきだと考える。「日本に駐留している米軍が引き揚げるならば、インドは参加・署名してもよい」という条件をつけたのである。「非同盟」「反植民地」「新国際秩序(国際的分配の公正)」を外交基軸としたネルー首相の意思を反映するものであった。それは、日本人に対して「わずか6年前まで白人帝国主義からのアジアの解放を叫んでいた日本人は、戦争に敗れて、早くも米国陣営の一翼を担う形での生き方を選ぶのですか」と問い掛けるものでもあった。

結局、インドはサンフランシスコ講和会議に参加しなかったが、翌年の1952年6月、単独講和(日印平和条約)に応じるという実に味わい深い手を差し伸べてくれた。日本の国際社会復帰にとって大きな意味をもつものであり、55年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)への日本参加の道を開く契機であった。インドの姿勢は、米国の対日政策にも影響を与えた。日米安保体制実現の立役者でもあったJ・F・ダレス米国務長官は「全アジアが米国に対峙するような事態を避けるためにも、日本での公正な東西協力を実現し、インドの懸念が現実とならないようにしなければならない」(1952年1月、フォーリン・アフェアーズ「太平洋の安全保障」)と述べているが、インドの暗黙の圧力は効いていたのである。

多くの日本人にとっては忘れられた存在であるが、インドでは今日でもチャンドラ・ボースは「独立の英雄」の1人として評価を得ている。チャンドラ・ボースとは「国民会議派左派」としての活動に飽き足らず、「インド国民軍」を率いインド独立のために日本軍とともにインパール作戦を戦った人物である。終戦後、インドに送還された国民軍兵士の裁判がインド民衆の反英独立運動を燃え上がらせる契機となった。「国民軍将兵は独立のために戦った愛国者であり、即時釈放されるべし」という抗議運動はインド全土に波及、ボースの出身地ベンガルのカルカッタでは10万人のデモが吹き荒れた。判決は「有罪」となったが、英国は妥協を余儀なくされ「刑の執行停止」となり、英国のインド支配は一気に崩れ始めた。

また、東京裁判に「日本無罪」の判決書を書き、公正な国際法理を貫いたパル判事の存在など、日印関係に横たわる歴史の断章を想起するならば、独立後も非同盟諸国会議のリーダーとして東西冷戦期を耐え抜き、冷戦後の世界史のゲームにおいてもしたたかな主体性を発揮しているインドの目線から見た日本がどう映るか、日本人は熟慮すべきである。ともすると、IT大国化するインドとのビジネス機会、中国を牽制するカードとしてのインドとの連携の有効性という文脈でインドを語る傾向があるが、そのような浮薄な姿勢では、インドの冷笑を受けるだけであろう。

インドの核政策は「非核平和主義」を貫く日本からすれば許容できるものではない。また「G4案」を共同提案して国連変革を求める立場からすれば「非同盟の雄」たるインドとの連携は重要である。問われるべきは、日本の外交基軸であり、核不拡散政策にしても、国連常任理事国問題にしても日本の姿勢には基軸を貫く継続性がない。影の要素として常に「対米配慮」が横たわっているのである。インドと向き合うには筋道の通った気迫がいる。