連載「脳力のレッスン」世界 2006年6月号
ジョン・カーボーが死んだ
ジョン・カーボーが死んだ。脳動脈瘤破裂が原因の突然死だった。3月20日、私がワシントンのダレス空港に着き、ウィラードホテルにチェックインした直後に、「ジョンが昨夜死にました」との連絡を受けた。その日の午後、彼との面談予定が入っていただけに驚きだった。ワシントンの共和党系の有力ロビィストだったカーボーとの様々な思い出が頭を駆け巡った。
そもそもロビィストという言葉はこのウィラードホテルに由来する。南北戦争の英雄だった第18代グラント大統領は、ホワイトハウスから2ブロックのこのホテルに散歩の途中にしばしば立ち寄り、ロビーの椅子で葉巻を楽しんだが、その際ロビーにたむろして近づいてくる政府の政策に影響力を行使しようとするパワーブローカーをロビィストと名付けたのだという。
しかも、このウィラードホテルこそ日本からの最初(1860年、万延元年)の公式遣米使節であった新見豊前守一行77名がワシントンで宿泊した場所であった。勝海舟や福沢諭吉が咸臨丸でサンフランシスコまで随行したのもこの使節であったが、勝、福沢はワシントンまでは行かなかった。だが「江戸幕府最後の俊才」といわれた32歳の小栗上野介はワシントンを訪れている。日米関係での因縁の場でもあるホテルで、カーボーと会うはずだったロビー横のカフェに座り、カーボーの人懐っこい笑顔を思った。思えばこの20年間、日米関係の谷間でこれほど暗躍した人物もいなかった。
カーボーなる存在
ジョン・カーボーと知り合ったのは1987年の春、東芝機械事件がきっかけだった。東芝機械が輸出した工作機械によってソ連の原子力潜水艦のスクリュー音が小さくなり探知システムに機能不全を起こしたというもので、今日からすれば冷戦終焉前の仇花とでもいうべき出来事だったが、ワシントンでは議事堂前で議員による東芝製ラジカセを打ち壊しのパフォーマンスも行われ、東芝本社の経営陣が引責辞任に追い込まれるなどの深刻な事件となった。
この時、東芝を攻撃する急先鋒となって動いたのが、ワシントンの防衛タカ派のグループ「マジソングループ」であった。マジソンホテルで定期会合を開いていることに由来するこのグループは、軍関係者、保守派のロビィスト、ジャーナリストからなる政策研究グループであり、米国の国益に重大な関心を払う勢力の代表格であった。保守派のシンクタンクたるヘリテージ財団や後にネオコンの居城となるAEI(アメリカン・エンタープライズ財団)にも連なる人脈を有し、ジョン・カーボーこそその中核メンバーであった。後のレーガン政権の国防次官補で、現在のブッシュ政権のイラク攻撃戦略の推進役にもなったネオコンの巨頭リチャード・パールも「マジソングループ」に参加していた。
東芝機械事件を機に日本への関心を深めたカーボーは、頻繁に日本を訪れるようになり、日米間の課題の「フィクサー」のような役割を高め、自らを「KUROMAKU(黒幕)」と呼びはじめた。「ホテルオークラ」の最重要顧客リストに名を連ね、「年間100泊はしている」と語っていた。FSX商戦、ファイアストン・ブリジストン問題から昨今の米軍再編問題まで、カーボーが介在した案件は数多く、日本の政界・財界・メディアなどにも驚くほどのネットワークを拡大していた。中には「マッチポンプの両刃の剣」として忌避する人もいたが、日米間の懸案事項につき相互の本音と落しどころを探るチャンネルとして機能していたといえる。
カーボーは70年代末のカーター政権時に、保守派上院議員として名を馳せたジェシー・ヘルムズが上院外交委員会の委員長だった頃、同委員会の政策スタッフとしてワシントンでのキャリアをスタートさせ、81年のレーガン共和党政権を生み出す上での若き原動力となった。政権入りを要請されたことも幾度となくあったが、一貫して表舞台に立たず、ホワイトハウス前のビルに個人法律事務所を構え、「影響力の代理人」として「101番目の上院議員」といわれるまでに存在感を高めていった。
となると、カーボーは「影の大物=悪役」というイメージを持たれかねないが、彼との親交を通じて実感したのは「思いやり溢れる気のいいアメリカ人」であった。英語に「レッドネック(赤い首)」という表現がある。「田舎者」という響きの言葉であるが、正にカーボーは南部ノースカロライナ出身の「レッドネック」であった。ある意味では健全なアメリカを代表する地域の出身で、東海岸都市部のボストン、ニューヨーク、ワシントンなどの空気に違和感を覚えながら生きているという印象だった。エリート顔をしたインテリのリベラル派を嫌い、ユダヤ人の影響力を拒否する会話を繰り返していた。ブッシュ再選を支えた南部の宗教右派にも通じる空気を漂わせ、幻滅するほどのナショナリズムを発散させながらも、困った人には滅法優しく、多くの人の面倒をみていた。
彼は1945年10月生まれで、60歳で死去したということだが、第二次大戦直後に生まれて「戦後という時代」を共有した同世代のアメリカ人としても興味深い存在だった。現ブッシュ大統領も前クリントン大統領も1946年生まれで、カーボーより1歳下だが、ベビーブーマー世代として、20歳台でベトナム戦争での挫折を体験した。所謂「ベトナムシンドローム」からの脱却が世代的テーマでもあり、カーボーのように「強いアメリカの復権」を希求してレーガンに賭け、80年代以降のアメリカをリードした一群の人々が生まれ出たといえる。それらの人達が冷戦の終焉を経て、米国の軍事力を利した「力の論理」で米国の掲げる理念の実現を夢見るようになったとしても不思議ではない。
AGREE TO DISAGREEの関係
カーボーと私は苦笑いをしながら握手をする関係だった。とくに、9・11が起こって、私が米国の自国利害中心主義を批判し、イラク戦争が「不条理で不必要な戦争」であるという発言をし、ブッシュ政権の世界戦略に協力することだけが日本のとるべき政策ではないことを主張し続け、そのことはカーボーも認識していた。困った奴だなという顔をしながらも、来日の度に連絡もくれ、面談も続いた。太平洋上の機内で会ったこともある。最近の米軍再編を巡って、あまりに米国の都合を優先させた論理を展開し、米国に協力することこそ日本の利益という主張を繰り返すカーボーに対して、「君が日本人だとしたら、戦後60年が過ぎても外国の軍隊が駐留し続けている状態に疑問を抱かないか。例えば、米国に外国の軍事基地が半世紀以上も存在するなどということが許容できるか」と問い掛けたところ、「お前の主張もよく分る」と片目をつぶったものだ。悪意無き傲慢さとでも言おうか、米国の意思と行動で世界は制御できると思い込んでいるような途方も無い楽観主義が漂っている人物だった。その意味で、アメリカ人の一つの典型といえた。
外交の世界では「AGREE TO DISAGREE」、すなわち賛成はできないが相手の主張を理解するという姿勢が大切になる。「アメリカの国益優先」のカーボーが「アジアにおけるアメリカの影響力を最大化させ維持する戦略」を心においてフィクサーとしての仕事を仕掛けてくるのはある意味では当然である。日本人としては、自らの国益を熟慮して自律・自尊の基軸を志向しなければ、米国の世界戦略のサブシステムとしての位置付けを脱皮することはできない。実は、親米派とされる人達の陥穽はここにある。米国の世界戦略に無原則に妥協・協力することが「親米」の証ではない。相互信頼に値する緊張感ある協調が求められるのである。朝から赤ワインを飲み、チーズとステーキを食べ、ジョークに笑い転げていたカーボー。 私の中で一つのアメリカが死んだ。

