連載「脳力のレッスン」世界 2006年5月号
イラク戦争から3年目のアメリカ〜歪んだ繁栄の内実
3月20日、ワシントンに向かうANAの機上で、3年前を思い出した。あの時もワシントンから東京に向かうフライトで同じ番号の窓側の席に座っていた。そして、機長からのメッセージで、米軍がイラク攻撃を開始したことを知らされた。9・11とイラクの関係をこじつけ、逆上して「大量破壊兵器を持つイラクの脅威」を誇張し、「イラクの民主化」を叫ぶブッシュ大統領の眼が据わったような表情に象徴されるワシントンの異様な雰囲気に、私は不吉な予感を覚えつつアラスカ上空の機内の闇をみつめていた。
あれから3年、ワシントンは憑き物が落ちたような虚脱感の中にあった。イラク情勢は一段と泥沼の様相を深め、イラクでの米軍兵士の死者も2,314人となった。バグダッド陥落で勝利宣言をした時が138人だったから、その後に2,176の墓標が立ったことになる。開戦からの累積戦費も3,000億ドルを超した。一応、イラクでの国民議会選挙を終え、正式政府発足の段取りが整いつつあるかにみえるが、米軍に協力している勢力も、米軍撤退後の主導権を狙った「面従腹背」が本音で、宗派簡のヘゲモニー争いは「内戦」に近づきつつある。ブッシュ政権の支持率も3割台に落ち込み、末期的症状にある。
「大量破壊兵器を持つイラクの脅威」という主張も、ブッシュ大統領自身が、昨年12月には、イラク攻撃開始は間違った情報に基づくものであったことを認めた。それでも、サダムの専制体制を倒し、イラクの民主化に寄与する戦争であることにこだわり続けているが、現実は「民主化」などといえる状況ではない。そして仮に民主化が進み民意を反映した政権ができたとしても、人口比で最大勢力たるシーア派主導の政権にでもなれば、シーア派イスラムの総本山たる隣国イランの影響下のイラクとなることを意味するわけである。米国がイランの核問題に極端に神経質になるのは、「イスラムの核」が呪われたように米国に襲い掛かりかねないからである。
産軍複合体に回帰するアメリカ
イラク戦費が財政赤字を拡大させ、05年度には3,185億ドルとなった。同年の経常収支の赤字8,049億ドルを視界に入れると、所謂「双子の赤字」は1.1兆ドルを超え、米国経済は機能不全に陥っていてもおかしくないのだが、奇妙なことに米国経済は好調を持続している。05年の実質GDP成長率は、大方の「失速」という予想を裏切って前年比3.5%の成長となった。今年も3%台の成長が予想されている。
何故、理論的には失速しても不思議ではない米国経済が持ち堪えているのか。まず、戦争経済という要素が指摘できる。クリントン政権最後の年たる2000年度に、冷戦後の軍事費削減を受けて2,945億ドルだった軍事費が、06年度には5,359億ドルと実に2,400億ドルも増加している。9・11からの5年間で米国経済の体質は一気に「産軍複合体」に回帰したのである。「平和の配当」「軍事技術の民生転換」といっていた冷戦後の10年に決別し、戦争が経済を支える体質へと戻ってしまったのである。巨大な消耗にすぎない戦争という要素が皮肉にも米国経済のカンフルとなっているのである。
さらに重要なことは、世界最大の債務国たる米国が破綻しない「資金流入のメカニズム」である。03年から遡る10年間で、米国は累計2.78兆ドルの経常収支の赤字を垂れ流したが、それを補って余りある資本収支の黒字を2.82兆ドル積み上げ、資金流入余剰を実現してきた。下血は凄いが輸血はもっと多いという状態で、産業の実力以上の過剰消費と過剰軍事力を維持してきたといえるであろう。
ところが、この流入過剰が流入過少に転じたのが04年であった。つまり、同年の経常収支赤字6,681億ドルに対して資本収支の黒字は5,818億ドルと、米国に吸い寄せられていた世界の資金が必ずしも米国に向かわなくなる兆候が見られた。「危うしアメリカ経済」で迎えた05年だったわけだが、結果として発表になった数字は経常収支赤字は8,049億ドルに拡大したものの、資本収支の黒字も7,869億ドルに前年よりも2,000億ドル以上も増加し、結果として流入過少はわずか180億ドルですんだのである。
理由はしたたかな米国の戦略的政策である。FRBを18年も支えたグリーンスパンは去ったが、彼は05年の一年間でFF金利を年初の2.25%から年末には4.25%へと2ポイントも引上げた。景気対策的には厳しい選択だが、「金利差」を拡大して世界の資金を米国に引き寄せる効果は大きかった。また、企業税制を利した極端な政策が発動された。一年間の時限法ではあるが、「ホームランド投資法」が発動され、海外に展開している米系多国籍企業が本国に資金を還流させた場合に税制面でインセンティブを付け、還流効果3,000億ドル以上を挙げたとされる。
最大の債権国日本が債務国米国を支える構造
04年の数字で、米国の対外純負債は2.5兆ドルで世界最大の借金国である。一方、日本の対外純資産は1.8兆ドルで、14年連続で世界最大の債権国である。つまり、日本の資金が米国に還流して米国を支えているという基本構図が成立しているのである。冷戦後の世界において、「ドルの一極支配」、「米国の一極支配」などといわれる状況が現出したが、その背景には、貿易黒字で蓄積した資金を米国への債権という形で支える日本という姿が存在しているわけで、正に日米はシャム双生児のように究極の相互依存関係にあるといえる。しかも、ブラックジョークともいえるのが、債務国たる米国が空前の繁栄を続け、債権国たる日本が「失われた10年」をのたうち回ってきたという奇妙な事実である。
債務国たる米国の05年末の外貨準備は、わずかに651億ドルで、日本の8,469億ドル、中国の8,189億ドル、韓国の2,104億ドルに比べて惨めなまでに貧弱である。しかし、基軸通貨国である米国は信用不安に陥るどころか、貿易黒字、経常黒字を蓄積した国々の資金をドル資産保有という形で米国に引きつけて経済を回しているのである。それが先述の資本収支の黒字の累積である。
しかも、このドル資産は一度取り込まれると米国にとってのみ有利な「カラクリ箱」に閉じ込められてしまうのである。例えば、長期的なドルの減価による米国の債務縮小という形で閉じ込められていく。85年から20年間の日本の対外純資産を取得時点での為替レートで累積すると約245兆円に達するが、時価レートでは約190兆円となり、実に55兆円もの国富がいつの間にか消失したことになる。さらに、日本のドル資産は「ドル安」による一層の目減りを恐れて、実体的には引上げることのできない固定資産となって囲い込まれているのである。
常識的には、対外純負債(債務)が増えるということは利息負担を増やし、米国の金融収支を悪化させると考えがちだが、米国の負債の多くが金利の低い国債であり、米国の対外金融資産の金融収益率のほうがはるかに高い。それ故、本来は借金地獄であるはずなのに「借りたよりも高い利率で海外運用している」ために平然としていられるという状況なのである。
ただし、日本人としてはいたずらに被害者意識に駆られて慨嘆している場合ではない。米国が抱える危うい繁栄の構造と日本との相関関係を考える時、問われるのは日本自身の知恵である。自らが額に汗して構築した資産を、将来の繁栄と安定のために如何に活用すべきかが求められる。決して他国に自国の運命を委ねるのではなく、戦略的意思をもって未来に布陣すべきなのである。とりわけ、これからはアジアの資金をアジアに還流させ、広域アジアの安定に資するプロジェクトを実現する戦略が求められるであろう。

