寺島実郎の発言

HOME > 寺島実郎の発言 > 連載「脳力のレッスン」 > あらためて渋澤栄一を思う〜日本の資本主義を考える視点

連載「脳力のレッスン」世界 2006年4月号

あらためて渋澤栄一を思う〜日本の資本主義を考える視点

埼玉県が主催する「渋沢栄一賞」式典の記念講演を引き受け、改めて渋沢栄一なる人物について再考してみた。およそ歴史に名を残した偉人、とりわけ経済界の大御所なる人物の伝記ほど虚飾に満ちたものはなく、生身の人物に迫ると無残なまでに内実の乏しい人物像に行き当たることが多いが、この渋沢栄一という人は姿勢を正さずにはいられぬような光を放っている。とりわけ「グローバル資本主義」といわれる現代の資本主義が、過剰なまでのマネーゲームに傾斜した腐臭を放つ中で、日本の資本主義の原点に立つ渋沢栄一の足跡は我々の進路に強く何かを訴えている。

昨年、95歳で亡くなった経営学の重鎮P・F・ドラッカーも、渋沢について「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」(「マネジメント」、1974)と述べている。

渋沢栄一の足跡——進化し続けた男

渋沢栄一は天保11年(1840年)、現在の埼玉県深谷市に富農の子として生まれた。13歳の時にペリーの浦賀来航を体験し、幕末維新の騒擾に巻き込まれ、23歳の時には、漢籍の師でもあった10歳年上の従兄である尾高惇忠の影響を受けて「尊皇攘夷論」に心酔して倒幕のための高崎城の乗っ取りを計画したが挫折、熱い血をたぎらせる青春を体験している。その後、君子は豹変するではないが、情勢を探るために京都に向ったのを機に、懇意にしていた一橋家の重臣の勧めで一橋慶喜に仕官することとなり、慶喜の将軍就任に伴い幕臣という立場となる。

運命の転機というべきか、慶応3年(1867年)、慶喜の弟徳川昭武の訪欧使節団の一員として、27歳の渋沢は約1年間にわたるヨーロッパ視察の体験をする。この時の欧州体験が渋沢栄一の視界を広げる原体験となり、その後の人生にとって重要な意味を持った。パリで万国博覧会を視察したのみならず、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、英国を巡り、日本での大政奉還を知り、急遽帰国している。この時、渋沢は「航西日記」「巴里御在館日記」「御巡国日記」という三つの日記を残しており、驚嘆すべき観察眼と吸収力で各国での見聞を記録している。鉄道、電信、諸工場、上下水、博物館、銀行、造幣局、取引所、化学研究所などを冷静に観察しており、後の渋沢の視座を構築したことが分る。

余談だが、私自身も27歳の時、初めて欧州を体験した。1975年の夏からの4ヶ月程度の滞在で、ロンドンをベースにパリ、リスボンも訪れた。この時、「英国に関する考察」という小冊子をまとめたが、読み返すと経済社会の成熟化に伴う「英国病」についての考察など、新鮮な衝撃を分析しようとしており、私のものの見方にとってこの時の体験がいかに意味を持ったのかが思い起こされる。渋沢の場合、250年もの鎖国の眠りから覚めた直後の欧州体験であり、その衝撃はいかばかりかと思われる。

帰国後の渋沢は徳川慶喜に従い静岡に居住した後、大隈重信に説得されて大蔵省租税正に就任、4年間にわたり官吏として能力を発揮したが、33歳の時(明治6年)に井上馨とともに大蔵省を辞任、以来、経済人として実業の世界を生きた。35歳で第一国立銀行頭取、36歳で東京会議所会頭に就任、それ以来、東京海上保険、東京株式取引所、日本郵船、東京銀行、日本銀行、足尾銅山、大阪紡績(東洋紡績)、東京瓦斯、帝国ホテル、帝国劇場、札幌ビール、清水建設、東宝など500もの起業・育成に関与した。

同時に渋沢は33歳の時に上野に養育院を設立して以来、東京市養育院や中央慈善協会、盲人福祉協会などの社会福祉施設、日本赤十字社、聖路加国際病院、済生会、慈恵会などの保健・医療施設、一橋大学、東京女学館、日本女子大などの教育機関、日仏会館、日露協会、日印協会、在米日本人会などの国際団体を含め600を越す社会公共の活動に関与・支援を続けた。

一人の人間がこれだけの活動スコープで人生を疾走したという事実に驚かされるが、何故渋沢栄一がこれだけの構想力と実行力を持ちえたのかを考えると、再びドラッカーの次の言葉を思い出す。「次代の人々の成長を助けることほど、現代の経営者自身の成長進歩——したがって盲点の克服——を容易にするものはない」(「現代の経営」、1954)つまり、渋沢栄一は後進達が持ち込んでくる構想や提案を誠実に支援することによって自らが進化し続け、周りから盛り上げられることによって常に時代の中心に立ったのである。「人徳」という言葉が胸にしみる。

何故、渋沢栄一なのか

渋沢は76歳になって「論語と算盤」と題する本を刊行し、自らの経済思想の収斂を試みている。世に「経済道徳合一主義」とされる思想であり、営利の追求も資本の蓄積も道義に合致するものでなければならないというのが渋沢の思想の核心であった。マックス・ウェーバーは欧州の資本主義の精神の基底にプロテスタンティズムの規範性が横たわっていることを指摘したが、日本資本主義の基底に儒教的価値が存在していることを体現しているのが渋沢栄一だといえる。

幕末維新の変革を支えた経済人が渋沢に限らず、経済合理性の探求を是としながらも、経済活動に規範性や倫理性を求める傾向を内在させていたことは、それに先立つ江戸時代の石田梅岩、三浦梅園、二宮尊徳などの経済思想にみられる「倹約・布施」「経国済民」「報徳」といった価値を継承し共有していたからに他ならない。

渋沢栄一が幼少期に受けた教育を考えると、明治期の近代教育体制が整う以前の日本の地域社会が持っていた「教育力」の高さを印象付けられる。渋沢は武士の子供ではなく、養蚕なども手掛ける富農の家に生まれたが、7歳の頃から尾高惇忠より、四書、五経、小学、日本外史、一八史略などを学び始めた。いかに日本の地方における教育の基盤が存在していたかを思わせるのである。和漢洋の教養という言葉があるが、現代日本においては「教養人」とされる人でも多少の洋の教養は身に付けていても、和と漢の教養を有している人は稀有である。和と漢の教養を失って以来、日本人の魂の基軸が揺らいできたことに気付く。論語をすべて暗記していたという渋沢伝説はともかく、知識としての儒学を身につけていただけではなく、彼の生き方には計算や打算、経済合理性を超えて、「一点の素心」とでもいうべき人間としての誠実さを示す逸話が少なくない。

例えば、彼は大正7年(78歳)になって、お世話になった徳川慶喜への報恩を込めて、「徳川慶喜公記」を執筆し出版している。晩年の渋沢は「自分は人生を顧みて婦人関係以外は天地に恥ずるものはない」と照れ隠しで語っているが、周りの人間を惹きつける人間味溢れる熱い人生だったことが随所にうかがえる。

「合本主義」という表現で、渋沢は株式会社制度の重要性を訴え、東京株式取引所のような仕組みを創設した。それは欲と道連れともいうべき資本主義をいかに制御するかという真摯な模索だった。ライブドア問題、耐震偽装問題、東横イン問題など資本主義の腐敗が噴出する今、資本主義社会の正当性を信ずる人間は、資本主義社会の筋道の通った道理を求めた渋沢栄一の志を静かに思い起こさねばならないだろう。

渋沢型の経営観は時代遅れでも何でもなく、「育てる資本主義」の象徴として我々自身が引き継いでいかねばならない。