連載「脳力のレッスン」世界 2005年10月号
戦後60年の夏の意味〜戦艦ミズーリにて
日露戦争から100年、そして第二次世界大戦から60年という節目の年の夏が終った。昭和20年8月15日に至る日露戦争からの40年を戦争の時代とするならば、我々が生きてきた60年は平和の時代であった。踏み固めてきたはずの平和の時代の進路を危くするような「混迷の夏」というのが、秋口に立っての実感である。
「郵政民営化」を巡る政争の果てに衆議院の解散・総選挙がなされた。いつの間にか、この春から苦悩してきたはずの「国際社会における日本の在り方」を問うテーマであった「近隣諸国との緊張関係」「国連常任理事国」が消えた。イラク問題や自衛隊派遣の問題もメディアの関心事項ではなくなった。世界史の鳴動の中で、何とも視界の狭い内向にある状況こそ、日本の危機なのである。
戦艦ミズーリ号に立って
ハワイ真珠湾にある戦艦ミズーリ号を訪れる機会を得、1945年9月2日、ここで日本の降伏文書の調印がなされたという右舷01デッキに立った。隣に日本の真珠湾攻撃によって沈んだ戦艦アリゾナが眠るこの場所に、1999年にミズーリ号を係留して博物館とした米国の意図を思いながら戦後60年を思った。
降伏文書調印に際し、「ドラマ化」(演出)にこだわるマッカーサーは本国から、ペリー来航の時に旗艦サスケ・ハナに掲げていた星条旗を取り寄せ、シンガポール陥落の英軍の責任者パーシバル将軍まで招いた。シルクハットにタキシードという正装をした重光葵外相、軍装に身を固めた梅津美治郎参謀総長がミズーリ号艦上を埋め尽くした米国の将兵に取り囲まれて降伏文書に署名する写真が強烈な印象を残し、多くの日本人は第二次大戦を「米国への敗戦」と認識した。厳密にいえば、日本は「米国と中国の連携に敗れた」のだが、日本人の中に「中国に敗れた」という認識は生まれなかった。
1931年に満州事変、1937年には日中戦争が始まり、日中間では15年戦争が続いてきた。日米戦争は1941年12月の真珠湾攻撃からの5年弱の戦いであったが、米国への敗戦として認識したことによって、米国側の用語であった「太平洋戦争」が日本人にも共有された。「大東亜戦争」としていた「東亜」、すなわちアジアが消えたのである。
もし降伏文書の調印が米国の軍艦の上ではなく、東京のどこか他の場所で中国に配慮する形でなされ、進駐軍の中に中国の存在があったならば、日本人の戦争観や戦後観は大きく変わっていたであろう。日本の敗戦直後から、国民党の中国は共産軍との国内抗争に手惑い、日本の戦後処理に関わる余裕がなかったという事情もある。また、世界史のゲームが冷戦型へと向かい、ソ連への警戒心もあって米国が日本の戦後に他国の介入を望まなかったという背景もある。その帰結として日本はアジアに向き合うことも、悩むことも無く、「脱亜入米」の戦後に邁進することができたのである。
戦後60年の時代の空気
戦後60年の日本の空気は奇妙だった。春先から日本の戦後とアジアの希薄な関係、すなわち近隣諸国との信頼関係を構築しえぬまま新世紀を迎えた日本の国際関係の脆弱さを思い知らされる出来事が続いた。「反日デモ」「日本の常任理事国入り反対」など日本人にとっては唐突な事象だが、近隣諸国が日本に向ける嫌悪や憎悪は、日本の表情が鏡に写っているともいえるものである。
戦後50年といわれた1995年からの10年間の日本の変化が映し出される。戦後50年の日本は村山内閣であり、「日本の植民地支配と侵略」を反省・謝罪する村山談話が出された。自民党単独政権が崩れ、55体制の対極にあった自民党と社会党の連立という異様な状況下であったが、その10年前の戦後40年における「中曽根首相の靖国公式参拝」を巡る近隣諸国との軋轢を思えば、半世紀を節目にアジアとの関係に新たな地平が見え始めたのかとの印象はあった。しかし、戦後60年に至って、2005年の東アジアは歴史のネジを逆回しにしたような空気に覆われている。
東アジアの指導力が劣化し、日中韓ともにそれぞれの国内事情を背景にナショナリズムを政権基盤の浮揚・安定のために利用しようという矮小な意図も垣間見える。また、日本人の心理としては、国連常任理事国問題で近隣の中国・韓国からの反対をくらい、戦後60年間に営々と築いてきたはずの国際社会での名誉ある地位を否定されたことに当惑し、攻撃へ反発する心の帰結として、「もっと日本も自己主張すべきだ」という気持が高揚してきたという面もある。それは歴史認識に関する近隣の執拗な攻撃に対して、「日本だけが間違っていたわけではない」「侵略と植民地支配の悪い部分だけが誇張されている」という論理に誘惑されることにもなっている。
こうした状況下で、自虐でも尊大でもない歴史観をもってアジアに正面から向き合うことは容易ではない。常に日本近代史の二重構造に戸惑うことになる。すなわち、欧州列強のアジア侵略に恐怖心を抱きながら開国、明治維新を迎え、富国強兵路線に自信を深めるにつれて、「親亜」を「侵亜」に反転させ列強模倣の帝国主義のゲームに参入していった歴史を直視せざるをえないからである。いかに自己弁護しても、日露戦争から40年間の歴史は「他に選択肢はなかった」といえるものではない。
肝心な21世紀への想像力
戦後60年、我々は近代史の教訓を忘却し、21世紀の世界史のゲームを見誤ってはならない。この夏も、欧州、中国、アジアと動き回ったが、それぞれに、21世紀の世界における存在感を求めて動き始めているというのが実感であった。中国のみならず、アジアは一段と自信をつけ、国造りと相互連携を深めている。また、アフリカ諸国も「国連改革」で見せたごとく自己主張を強めている。世界は全員参加型秩序に向けて動いている。
我々は、あまりにも米国を通じてしか世界を見ないという固定観念に埋没してきたことによる幻覚症状として、ナショナリズムの向け先が、「近隣の国にはなめられたくない」という次元に留まり、米国と連携してアジアに向き合うという枠組みに終始してきた。アジアの日本への目線に敬意が無い本質的理由はここにある。
ミズーリ号は、朝鮮戦争に出動した後、1955年の最初の退役を迎えるが、1986年に470億円を投入して最新兵器を備える新生戦艦として復役、湾岸戦争には28発のトマホークを発射する形で参戦したが、1992年3月に最終的に退役し、真珠湾に係留され博物館として保存されることになった。建造は1941年というから、半世紀にわたり米国の砲艦外交の象徴として米軍の海外展開を担ってきた。
私がミズーリ号を見学している間にも迷彩服をきた20名前後の若い海兵隊員が、甲板に整列して、戦艦ミズーリの栄光の歴史のブリーフィングを受けていた。19世紀の米国の対外戦争での死者はわずか4,400人であったが、20世紀の米国は絶え間なく戦争を続け、対外戦争での死者は実に43万人に達した。21世紀に入っても、米国は戦争を続け、イラク戦争での戦死者も、8月末の時点で1,900人に迫りつつある。
これらの墓標を想像する時、「アメリカの若者も大変だな」と同情を禁じざるをえない。21世紀の世界史が「力こそ正義」ではなく、国際協調と国際法理を求める全員参加型秩序に向かうことを米国は理解できるであろうか。おそらく、米国にとってのアジア最大の同盟国たる日本の役割は、テロへの恐怖心と軍事力への過信が結びついて、アメリカの価値に基づく世界秩序の再編に狂奔する米国を健全な国際社会の参画者として、アジアの安定のために招き入れることであろう。

