寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2005年8月号

マルクスへのインタビュー

「インタビューズ」という興味深い本(原書 “THE PENGUIN BOOK OF INTERVIEWS” 1993、邦訳文藝春秋刊)がある。近代史に存在感をもった歴史的人物が、メディアのインタビューに応じて残したメッセージを集積したもので、その人と時代を再認識する上で面白い。とりわけ、歴史上の人物となってしまった人物が、自分と時代との関わりをどう認識していたのかが示唆的である。

カール・マルクス、シオドア・ルーズベルト、トマス・エディソン、アドルフ・ヒトラーなどへのインタビューが並び、タイムカプセルから聞こえてくるような肉声が心を躍らせるが、とりわけ1871年7月の「ワールド」誌に掲載されたマルクスのインタビューには考えさせられた。

1871年のマルクス

マルクスは、1840年代にケルンの新聞編集者としてキャリアを開始したが、政治的理由で彼の新聞が発行禁止となり、パリを経て1849年にロンドンに亡命、その後1883年にこの地で死ぬまで、約30年にわたるロンドン生活を送った。ロンドン亡命時のマルクスの貧窮は凄まじいもので、1851年から62年まではニューヨーク・トリビューンの特派員として週2ポンドの薄給で500回以上も寄稿している。後にケネディ大統領が「もしアメリカのジャーナリズムがマルクスの原稿料を値切らなかったならば、マルクスはあんなに貧乏しなかったろう。そしてあんな革命論など書かなかったろう」という冗談をいって、世界中の生真面目なマルクス主義者を逆上させたことも、今日では昔話である。

このインタビューが行なわれた1871年といえば世界史上最初の労働者や市民からなる自由政府であるパリ・コミューンの年であった。既に彼の代表作「資本論」が1867年に出版され、一定の注目を受ける権威者になっていたが、インタビュアーだったワールド誌の記者R.ランドールはマルクスを「パリ・コミューンの弁護人」と紹介しており、米国のメディアがマルクスに注目したのは、パリ・コミューンの流血の衝撃を受け、その首謀者探しの意図であったといえる。眼前のデキゴトだけを追うというジャーナリズムの習性は今日に始まったことではない。

したがって、インタビューでの質問は、マルクスが設立し、リーダーとなっていた「インターナショナル(第一インターナショナル)」とパリ・コミューンの関係に執拗なまでに集中している。普仏戦争に敗れたフランスではナポレオン三世が退位、この年の1月には、勝ち誇ったプロイセン王ウィルヘルムは、念願の統一ドイツ帝国の成立宣言を、あえてパリ郊外のベルサイユ宮殿の鏡の間で強行、皇帝に即位した。これが独仏間の遺恨となり、半世紀を経て第一次世界大戦後のドイツに対するベルサイユ講和会議の伏線となった。この普仏戦争敗戦とドイツの支援を受けた第三共和制を巡る騒乱がパリ・コミューンであった。事態が複雑かつ過激であったため、様々な憶測と陰謀説が乱れ飛び、その有力な一つが「マルクスを黒幕とするインターナショナル(国際労働者協会)の陰謀」であった。

質問に答えてマルクスは「パリの暴動は、パリの労働者によるものです。労働者の中で最も有能な者が、その暴動の指導者であり指揮者であったことは間違いないでしょう。しかりながら、最も有能な労働者は、同時にインターナショナルの会員でもあったのです。でも、だからといって集団としてのインターナショナルは、彼らの行動にいささかも責任があるわけではない」と語り、ロンドンの秘密指令など荒唐無稽であり、インターナショナルの実態が「労働者階級の政府」などではなくそれぞれの自主独立を尊重する会員の組合にすぎないことを弁明している。

このあたりは、今日の「国際テロ組織アルカイダ」の幻影に過敏に反応する空気にも通ずるものがあるが、マルクスが唱道した「政治権力の奪取による労働者の経済的解放」が、世界の民衆運動から孤立せず、ロシア革命に至る世界潮流の一つの核を形成していったことが重要である。このインタビューから百数十年にわたり、世界は社会主義を巡り悩み続けることになる。「欧州史」の著者ノーマン・ディヴィスが指摘するごとく、「マルクスは自分でそれと気づかずに、宗教の代用品を新たに提供した」といえるほど、社会正義を希求する青年に呪文を提供したのである。

ところで、1871年といえば明治4年であるが、この年21歳の日本人の青年がパリに留学した。西園寺公望である。西園寺がパリに着いたのは1871年の3月27日であったが、西園寺の理解と認識では、パリ・コミューンは「浮浪の輩」が起こした騒擾にすぎず、「政府対賊」の戦いであった。しかし、約10年間ものパリ留学を通じ、第三共和政下の「政治的自由主義」の息吹を吸い込むうちに、西園寺は次第に民主主義・共和主義の理解者になった。ルソーの「社会契約論」の翻訳者として有名な中江兆民も1872年から2年間のフランス留学をしているが、中江との親交も西園寺に影響を与えた。

現代における構造的矛盾を問い詰めることとは

1917年のロシア革命の成功もあり、社会主義は20世紀の資本主義に緊張感を与え続けた。だが「労働者による政治権力の奪取」は決して階級矛盾を克服した理想郷を生むことはなく、新たなる支配の構造を生み出し、ソ連邦の崩壊に象徴されるごとく「大いなる失敗」に帰結した。結局、社会主義の失敗は、階級矛盾に怒りを燃やすあまり、対立と憎悪を増幅させ、社会を動かす創造力が、愛とか協調といったポジティブな価値から生み出されることを見失ったことに由来すると思われる。

冷戦の終焉によって、世界は社会主義への関心を失った。それは対抗勢力を失ったグローバル資本主義の専横を生み、競争主義・市場主義の奔流となって我々を取り巻いている。そして社会の構造的矛盾や不条理を省みなくなった。現代社会は決して見失ってはならない課題に満ちている。グローバルな分配の不公正の問題、イデオロギー対立が消えた後の偏狭な宗教とナショナリズムへの回帰傾向、自国利害中心主義に立つ「力の論理」への傾斜、これらの問題の背後にある構造を見抜き、21世紀の世界秩序をあるべき姿に近づけようとする知的営為が求められていることは間違いない。

「社会主義」の失敗という20世紀の教訓をも踏まえた社会の不条理に立ち向かう構想力が今日こそ必要なのだ。

宮沢賢治の詩集「春の修羅・四」に「生徒諸君に寄せる」という誌がある。

「・・・むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ・・・新たな時代のマルクスよ これらの盲目な衝動から動く世界を 素晴らしく美しい構成に変えよ・・・ああ諸君はいま この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る 透明な風を感じないのか」

この熱いメッセージに北海道の高校生だった私は衝撃を受けた思い出がある。日常性という壁に取り囲まれて現実主義に誘惑され、未来圏からの風を感じとれなくなりつつある今日的状況にあって、改めて自らを奮いたたせねばと思う。

ハイゲートのマルクスの墓地に胸像に刻まれた「哲学者達は世界をただ様々に解釈してきたにすぎない。肝心なことは世界を変革することである」という彼の言葉は、筋道立てて時代に関わろうとする多くの人々にとって今も重いメッセージとなっている。