寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2005年4月号

山本五十六は肉眼で真珠湾を見たのか

「山本五十六は自分の眼で真珠湾を見たことがあったのだろうか」―これは、山本五十六という人物に関心を持って以来、抱き続けたテーマであった。私自身、国際情報分析と経営企画の世界を生きてきた者として、人間の企画構想力が何に基づくものかを思考して、山本のようなフィールドワークを重視した人物が、国運を賭けた真珠湾攻撃を企画するに当たって土地勘のない状態で踏み込むはずがないとの思いがあった。開戦と同時に敵の基幹基地を航空兵力で集中攻撃するという乾坤一擲の大勝負を企画実行した当事者たる山本五十六の本質への関心でもあった。

結論として、間違いなく山本は肉眼で真珠湾を見ていた。一度は25歳の時(1909年)、巡洋艦「阿蘇」に乗り組み、練習航海として、ホノルル、サンフランシスコ、シアトル、バンクーバーを訪れた時である。また、1934年にロンドン軍縮会議予備交渉に海軍首席代表として参加した時も、あえて米国経由の旅程を組みハワイに立ち寄っている。1898年にハワイ併合を強行した米国は、1905年の日露戦争後、太平洋における日本の脅威を意識し始め、真珠湾を太平洋の要塞とする構想が浮上、1908年に基地建設が始まり、1911年には大型艦船用の水路が浚渫された。

ワシントン時代の山本五十六

ワシントンに駐在武官として勤務していた頃の山本五十六は、後輩に対して「駐在員がアメリカに来て三度の飯を食おうなどと思うのはもっての外の贅沢だ。倹約して、その金でアメリカを見て歩け」と語っていたという。自らもメキシコにまで足を延ばし、油田を見に行った。海軍に出張申請したが予算がないと許可されず、自費の貧乏旅行を敢行してメキシコを歩き回り、メキシコの官憲に怪しまれて、身元照会の電信が日本大使館に送られたとのエピソードも残している。

また、1991年になって、テキサス州ヒューストン在住の日系人のゲストブックから山本五十六のサインが発見されたとの報道がなされた(日経新聞91年12月5日付)が、これによれば、山本はニューストンの日系人吉松氏宅を1924年3月と、28年の2月に二度訪れ、サインを残している。テキサスの油田まで見に行ったという伝説は本当だったのである。

山本五十六は、当時としては異例なほど米国に学び、生活した経験を有する米国通であった。1919年(大正8年)、35歳の少佐の時、ハーバード大学に語学留学、駐在員・語学将校という身分で約2年間ボストンで生活している。1923年(大正12年)6月から9ヶ月間にわたり英・独・仏・伊・米と井出謙治中将の随員として欧米視察出張を体験、さらに1926年1月から1928年3月まで、ワシントンに駐在武官として勤務した。つまり、山本五十六は5年近くの米国での生活体験を有している。

この間、驚嘆すべき行動力で米国を調べ歩いているのだが、山本の米国生活について印象付けられるのは、行動を貫き通す明快な問題意識である。漫然と見聞を広げていたのではなく、日本海軍の命運を握る鍵は「石油」と「航空機」であるという問題意識を研ぎ澄まし、油田・製油所を訪ねたり、航空機についてのフィールドワークと文献研究に打ち込んでいる。「デトロイトの自動車工場とテキサスの油田を見ただけでも、日本の国力で、アメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるものではない」という彼の言葉が残っている。

「真珠湾50周年」を記念して、1991年に米国で出版された様々な本のなかで、スターロッグ・テレコム社が出版した「真珠湾」という小冊子には、ワシントンの連邦議会議事堂前に立つ山本五十六や、パーティーの余興で得意の逆立ちをする山本の珍しい写真が載っているほか、米国勤務時代の山本を知る米海軍の艦長エリス・ザッカリアスの次のような証言が紹介されている。「山本参事官は、航空母艦、つまり海軍力と航空力のコンビネーションにとりつかれたようだった。私は、真珠湾を航空機で攻撃するというプランは、ワシントンで休みなく働いていた彼の頭脳から創りだされたことを確信します。」

企画・構想力というものは、つまるところ経験と努力の延長線上に一瞬の閃きとなって開花するものらしい。山本五十六の真珠湾攻撃というプランも、単なる思いつきではなく、彼の5年間の在米生活におけるフィールドワークと1924年刊の米陸軍の航空の権威ビリー・ミッチェル将軍の「航空国防」(Winged Defense)などの文献研究の結果であることに気付く。

山本五十六への評価―偏狭な空気の中での苦闘

真珠湾攻撃は戦術論においては評価できるが、結果として米国を結束させて総力戦での敗北を招いたとして戦略論としての拙劣さを指摘する意見も根強い。山本五十六を愚将、凡将とする厳しい評価もある。しかし、職業軍人山本五十六に過大な責任を問うことは酷であろう。海軍兵学校59期で米内光政の副官も勤めた吉田俊雄が「4人の連合艦隊司令長官」(文藝春秋社)などの作品で書き残したごとく、山本が軍人としての作戦家の域を超えた人物であり「このくらい視野の広いバランスのとれた判断のできる人はいなかった」というのが的確であろう。

真珠湾攻撃の直後、1941年12月27日付で山本が甥の高野気次郎に宛てた手紙に意味深い文面がある。「爾後の作戦は政戦両翼渾然たる一致併進を要する次第にて、之が処理に果して人材可有之か、従来の如き自我排他偏狭無定見にてはなかなか此広域の処理、持久戦の維持は困難なるべく杞憂は実に此辺にありと愚考せられ候」(太平洋戦争研究会編「人間山本五十六」、徳間書店)この自我排他偏狭無定見という言葉に、この時代の空気と政治の無力に対する山本の怒りと真情が溢れている。

山本は最後まで対米開戦に反対した。海軍次官時代には日独伊防共協定を強化した三国軍事同盟に対し、対米戦に帰結する危険を理由に強く異を唱え、さらには、少将時代の1934年、ロンドン軍縮会議予備交渉に参加した時も、5カ国の駆け引き渦巻く中で、何とか無条約状態に至ることを避けるための努力を続けている。こうした山本の姿勢は陸軍の強硬派や右翼からは「軟弱な親米英派」「国賊」との論難を受け、次官時代には「辞職勧告」を含む様々な脅迫や嫌がらせを受けている。

日本がヒットラーとムッソリーニの側に立って進路をとる最終選択をした1940年9月、連合艦隊司令長官だった山本は、「物動計画における8割の資材を英米勢力圏に依存している日本が、独伊との三国同盟を選択していかなる物動計画の切り替えを行うのか」という設問と「米国との衝突を想定し、零戦と陸攻を千機ずつ整備して欲しい」との意見を海軍大臣に具申したという。(森山康平「山本五十六は何を見たか」、PHP研究所)

思うにまかせぬ中を山本五十六は生きた。目が開かれていたが故に自我排他偏狭無定見に流れる日本を取り巻く空気に焦燥感を覚えたであろう。戦後60年、戦争が風化し、日本は米国への無定見な傾斜と近隣への偏狭なナショナリズムの中をさ迷っている。大局観を持って世界を見抜き、自らの進路を静かに構想すべきとの思いが込み上げてくる。

ワシントン駐在武官時代に故郷の恩師に送ったポトマック河畔の桜の絵葉書に書き添えたという次の言葉に山本の胸中を思う。「当地昨今吉野桜の満開、故国の美を凌ぐに足るもの有之候。大和魂また我国の一手独専にあらざるを諷するに似たり」