寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2005年2月号

山川健次郎と柴五郎-明治の会津人の放つ光

三沢空港からむつ小川原の六ヶ所村に向かう途中、斗南藩を記念する史跡を見た。白虎隊の悲劇を生んだ会津藩が明治三年に移封され、この下北半島の付け根に位置する不毛の辺境の地で斗南藩となった。戊辰戦争で「逆賊」とされた会津は過酷な運命を強いられた。

会津藩の藩祖は徳川家康の孫、三代将軍家光の異母弟保科正之であった。徳川発祥の松平姓を賜り、家訓として将軍への忠勤を受け継いだ。幕末の藩主松平容保も謹厳実直な性格で、藩祖の家訓を守り京都守護職という役割を引き受け騒乱の京都に向かった。新撰組の後ろ盾となり、薩摩・長州の恨みを一身に受け、それが会津の悲劇の導線となった。

歴史の中に気になる人物がいる。私にとって会津が生んだ二人の明治人、山川健次郎と柴五郎が心に引っ掛かってきた。それはこの二人の存在感が「御当地の英傑」の域を超えて世界における日本人の価値を高めたという思いがあるからである。何故、逆境の会津からこのようなスケールの人物がでたのか、それは今日にも光を投げかけている。

山川健次郎の重み

明治の教育界の重鎮となった山川健次郎は1854年(嘉永七年)、会津藩の郡奉行山川重固(しげかた)の次男として生まれた。12人兄弟であったが、5人は夭折し、上に3人の姉と長兄の大蔵、下に2人の妹がいた。下の妹は津田梅子と一緒に米国留学した山川捨松であり、後に薩摩出身の大山巌陸軍元帥の妻となった。

藩校日新館に学び、15歳の時、白虎隊の隊士として戊辰戦争を体験した。会津落城の後、猪苗代に謹慎中に越後に脱走、長州藩士奥平謙輔の書生となり、その縁に支えられて、明治4年に18歳の時、北海道開拓使の枠で米国に留学、名門エール大学に入学し、物理学を専攻して日本人として初めて学位を取得した。

「寝食を忘れて勉学に励む」という言葉があるが、文字通り山川健次郎の留学生活も不眠不休の研鑚であった。「会津の敗北は理学が足りなかったからだ」と反省した健次郎は「理学(科学技術)」の専攻を決意し、語学の壁を超え、孤独と貧窮に耐えて勉学に励み、4年間の留学生活で学位取得までやり遂げたのである。今日でも時に政治家の海外留学の学歴詐称問題が話題となるが、山川健次郎が見せた集中力は驚嘆すべきものである。

帰国後は、23歳で東京開成学校教授補、26歳で開成学校が改編された東京大学理学部教授、明治34年には48歳で東京帝国大学総長となった。60歳の時、再び東京帝国大学総長となり、この間に京都帝国大学、九州帝国大学の総長を努め、東京物理学校(現東京理科大学)や東北帝国大学の創設にも尽力した。およそ日本の理科系大学教育の原点に立ち、大きな役割を果した。武蔵高校(現武蔵大学)、明治専門学校(現九州工業大学)の校長、総裁なども努め、生涯を通じ教育に情熱を注いだ。

山川健次郎の足跡において特筆すべきことは「人を育てた」ということである。直弟子からは、日本の物理学を支えた田中館愛橘、長岡半太郎がでた。星亮一は「山川健次郎伝-白虎隊士から帝大総長へ」(平凡社、2003年)において、「一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名になった。それでいいのだと健次郎は考えた」と述べているが、正にそうした人物であった。清廉潔白、質素で謙虚な生き方を貫き、小石川初音町の破れ借家に住み続け、家には常に会津の青年が書生として居候していたという。帝大総長としてはあまりに不釣合いな貧弱な家で、弟子たちが心配しても、斗南で苦闘した会津の人達の境遇を思い、決して生き方を変えず部屋には会津藩祖保科正之による家訓を書いた額を掲げていた。会津武士であることを彼は終生片時も忘れることはなかった。会津出身者の結束は固く、五年後輩の柴五郎などを招いて常に中国情勢などに耳を傾けていたという。

柴五郎という奇跡

陸軍大将柴五郎の生涯は劇的である。1859年(安政6年)に会津藩士の五男として生まれた柴五郎は、9歳の時に会津落城、祖母、母、姉妹の自害と白虎隊の自刃を直接体験した。斗南に移り、青森県庁の給仕からスタートして15歳で設立間もない陸軍幼年学校に入学、朝敵会津の出身者ながら薩長藩閥の陸軍で大将にまで登りつめ、実に1945年(昭和20年)の太平洋戦争の敗戦と帝国陸軍の解体を目撃するまで87年の生涯を生きた。彼の人生そのものが、帝国陸軍の創生、栄光、崩壊の歴史であった。

柴五郎が歴史に名を残すのは1900年の義和団事件(北清事変)である。列強の中国支配に反発する排外主義が「義和団」という宗教的秘密結社を中心に吹き荒れ、キリスト教会や宣教師への殺傷行為となって中国全土を駆け巡った。勢力を拡大した義和団は北京の列強公使館を包囲し、清朝政府も義和団支援を決め、列強に宣戦布告した。この時、北京に侵攻した多国籍軍の中で、日本派遣軍を指揮して日本進駐地区の軍政官となったのが柴五郎中佐であった。柴中佐が率いた日本軍は、他の列強の軍隊が戦利品を求めて略奪行為に走る中で、規律と統制を守り抜き中国人を保護したため日本管区に移住する住民が続出した。「コロネル・シバ」の凛とした存在感は、英国の日本への信頼と期待を醸成し、1902年の日英同盟成立を支える要素になったといわれる。

柴五郎については、石光真人編著「ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書」(中公新書、1971年)や村上兵衛著「守城の人-明治人柴五郎大将の生涯」(光人社、1992年)などの書物がある。義和団事件後の柴は日露戦争に野戦砲兵連隊長として奉天会戦で負傷、その後駐英大使館付武官、第12師団長、台湾軍司令官などを歴任、1923年(大正12年)に陸軍大将として退役した。世田谷の上野毛に隠遁し、昭和陸軍の暴走と破滅を目撃することになった柴は、日中戦争・太平洋戦争への展開に関して厳しい批判を残している。後輩に「この戦は残念ながら負けです」と語り、「中国は友として付き合うべき国で、けっして敵に回してはなりません」といい続けたという柴の言葉は、中国で命をかけて戦い、多くの中国人の友人をもっていた人物の言葉だけに重い。

ところで何故、逆境の会津から山川健次郎や柴五郎がでたのか。それは逆境だったからとしかいいようがない。過酷な運命に翻弄されながら、心を鋼にして途方もない不条理に立ち向かう気迫、それがあったからこそ信じ難い集中力でことが成せたのであろう。

私は「歴史を深く吸い込み未来を想う-1900年への旅、アメリカの世紀、アジアの自尊」(新潮社、2002年)を書き進めるのに当って、20世紀初頭の国際社会に展開した日本人である新渡戸稲造、内村鑑三、野口英世、朝河貫一、津田梅子などの足跡を追い求めながら、その多くが旧幕臣か東北地方の出身者であることを印象付けられた。そこには藩閥政治の中から排除され、立身出世の道に希望のもてない境遇に置かれた人たちが勇躍海外に新天地を求めて挑戦するという力学が存在していたともいえる。

現代の日本において、個人の生き方を制約する圧倒的不条理が消えた。貧困も差別も抑圧も皆無とはいえないが、山川や柴が生きた時代に比べればしれたものである。自分で好きに生きてよいという選択肢が目の前に提示されている。しかし、E・フロムの「自由からの逃走」ではないが、意思のない人間にとって圧倒的自由は拘束よりも苦痛である。自分が責任を持って自分の人生を創造しなければならないからである。二人の会津人の後ろ姿を見つつ、自由であることを生かしきれない現代人の悲しさを想う。