寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2004年10月号

ウィーンで考える狂気の時代に正気を維持することの難しさ

久々にウィーンを訪れ、このハプスブルク家の文化の余韻漂う街を散策した。ヒットラーは18歳からの5年半をこのウィーンで過ごした。美術学校への進学に2度失敗し、挫折と失意の青春であった。後にヒットラーは「わが闘争」の中でウィーン時代について「この多種族のバビロンの都市を思い出すだけでも胸が悪くなった」と回想している。青年ヒットラーは浮浪者収容施設に身を置かざるをえないほど困窮していたという。ヒットラーの反ユダヤ思想は、このオーストリアでの悲惨な青年期に形成された。

当時のウィーンは、1867年にユダヤ人の居住制限が撤廃されたこともあり、ロシアでのユダヤ人迫害を背景に東方ユダヤ難民の流入が続いていた。それらが形成した「多民族混成都市」としての性格が世紀末ウィーンの芸術文化の土壌となったともいえるが、金融から商業のみならず、医者・弁護士・学者などの知的職業で隠然たる勢力をとなっていったユダヤ人への反発も根強く、ウィーンは反ユダヤ主義の温床ともなっていった。当時のウィーン市長カール・ルエガー(1844〜1910年)はドイツ民族主義に傾倒し、「ユダヤ人はオーストリア経済の寄生虫」とする扇動を繰り返していた。

ヒットラーはルエガーに心酔し、「すべての邪悪なものの背後にはユダヤ人が関与している」と思い詰めるようになった。後に650万人のユダヤ人を虐殺し、民族浄化まで考えるに至った彼の反ユダヤ主義は、暗い青年期に醸成されたものであり、決して突然変異ではないのである。その意味でヒットラーも環境の子であり、時代の子であり、彼を育てた培養液がウィーンなのである。

オーストリア史の闇の部分

ナチスドイツによるオーストリア併合を決めた国民投票において、オーストリア国民の実に99.73%が賛成票を投じた。オーストリア国民はナチの進駐に抵抗したのではなく、熱狂的に歓迎したのである。1938年3月15日、ウィーンの王宮前の英雄広場に50万人の群集が集まって、ヒットラー歓迎集会を開いた。オーストリアはナチの被害者ではなく積極的加担者だったのである。それは時代が狂気の側に走り始めると、1人1人の人間において正気を保つことがいかに困難になるかの事例でもあった。

「サウンド・オブ・ミュージック」というと美しいオーストリアの山岳を舞台にしたミュージカル映画として認識され、主役ジュリー・アンドリュースが歌った「ドレミの歌」は世界中の子供達に歌い継がれているが、この映画が「ナチの積極的加担者であったオーストリアがあたかも被害者であったのように装うための巧妙な宣伝映画」としての意味があることを知る人は少ない。増谷英樹が「歴史の中のウィーン」で検証しているオーストリアの「偽りの過去」は衝撃である。

1971年から国連事務総長を10年間も務め、しかもオーストリア大統領にもなったクルト・ワルトハイムが、青年期にナチ突撃隊の戦士であったという事実が語るごとく、美しい芸術の国オーストリアの歴史には何とも暗い「闇」の部分が付きまとっており、反ユダヤ主義が歪んだナショナリズムとなって顕在化する傾向は今日でも極右政党・自由党の躍進(2002年総選挙では敗北)を支え、欧州の深層底流の影を形成しているのである。

新しい戦争論の皮肉

9.11以降の世界史の展開に関して、「新しい戦争」の時代という説明が説得力を持ちつつある。「テロとの戦い」は目に見えない敵とでもいうべき非国家的脅威との戦いであり、伝統的脅威との戦いとは異なる「新しい戦争」である。そのためには新しい安全保障論が必要とされ、利害や計算の上にたった「国益」を意識した国家間戦争とは異なり、自らの思想・信条・宗教などへの狂信にたった攻撃をしかけてくる卑劣なテロリストに対しては妥協なき先制攻撃も許容されるという議論さえ主張される。

しかし冷静に思考すれば、ヒットラーさえも彼自身の思い込みの中では「新しい戦争」を戦っていたことに気付く。既存の枠組みを覆し、歴史を転換させるような民族宗教戦争を戦っていたわけで、果てしなき被害者意識に立つ先制攻撃の実行者だったのである。1648年に30年戦争の結果として調印されたウエストファーリア条約は、ヨーロッパ最初の国際会議を踏まえ、カルヴィン派の同権を認めて宗教戦争を終結させようとするものであった。すなわち、その後の欧州史は妥協することの無い宗教戦争を自省し、近代的国際秩序の創造に向けて歩みだしたということだが、21世紀の今日に至るまで、異教徒や異民族を憎み妥協なき攻撃を正義とする論理が「新しい戦争」という仮面を被って繰り返し亡霊のように徘徊するのである。

「大量破壊兵器」を根拠としたイラク戦争の意義が正当性を失い、「イラクの民主化」を掲げた占領統治が捕虜虐待の映像で色あせていく中で、それでもイラク戦争に一定の意義を見出したい人達は、「サダムの排除は世界の安全のために正当」「サダムのような邪悪な専制を滅ぼすことは良いこと」という論理に自らの精神的安定を求めようとしている。そして、皮肉にもその論理に力を注ぎ込みかねないのが「新しい戦争論」である。テロの芽となりうる存在は先制攻撃で潰すことも妥当であり、古い戦争たる国家間の戦争を規制してきたこれまでのルール(国際法や国際慣行)は通用しない時代を迎えているのだという考えが都合よく見え隠れするのである。

だが、正義が邪悪を滅ぼす戦いとは、正に妥協なき宗教戦争であり、実は古い戦争への回帰にすぎない。しかも、イラクを攻撃し占領した側の正義など、空虚なプロパガンダにすぎないことは、米国占領後のイラクの巨額の石油代金がいかに不正な形で消失したかという国連安保理任命の監査人の調査報告でも明らかである。

半世紀以上も続いたイデオロギー対立の冷戦期を経て、21世紀の世界史が、再び民族とか宗教という要素によって分断されかねないことも確かである。またテロリストという従来にない見えざる敵と向き合う「非対称型の紛争」に直面せざるをえない厄介な時代に向かうことも否定できない。しかし、自分には一切の誤謬がなく、従来の規制に縛られることなく邪悪な敵対者に妥協なき戦いを挑みうるという志向は危険なものである。

結局、我々が歴史に学んできたことは怒りや憎しみを力の論理だけで制御することはできないということである。「新しい戦争」という言葉に拠り所を求めて、一時の激情に駆られて自分達の戦争を正当化しようとしても、暴力は暴力に裏切られるのである。歴史が力の論理を求めて荒れ狂う時、正気を保つことは容易ではない。戦争に至る力の論理に思わず誘惑されてしまう瞬間が訪れるのである。絶対平和主義を心に刻むほど理想主義者ではないが、力の論理を制御する新しいシステムの構築には関心を払いたい。例えば、既に昨年ハーグに設立された国境を超えた組織犯罪を法的に処断するICC(国際刑事裁判所)の実体化であり、国連等の国際機関を通じた核および大量破壊兵器の廃棄・制限の推進である。また、近隣のアジアにおける紛争を事前に回避・予防するための意思疎通のシステムを重層的に構築する努力も重要であろう。

戦争の悲惨をもたらし味わいつくした日本人として、少なくとも魂の基軸とすべきは、時代の空気に合わせて次々と登場する「力の論理の誘惑」に負けないということである。生身の人間が現代史に関ることは容易なことではないが、歴史に恥じない判断を問いかけ続けたい。