連載「脳力のレッスン」世界 2003年12月号
フェルメールへの熱い想い
「君はフェルメールを何点見たか?」何とも気障なこの会話が、国際社会を動き回る人間達の一寸した楽しみとなっている。「フェルメールって何ですか」などと言おうものなら、軽蔑の眼差しを受け、ほとんど会話が進まなくなる。
フェルメール(Jan Vemeer),この一七世紀のオランダが生んだ画家は、その作品の魅力にとりつかれると、異様なほどマニアックな気分にさせる。何しろ作品数が少ない。贋作説の強い4点を含めてわずか36点の絵しか残していない。「真珠の耳飾りの少女」や「牛乳を注ぐ女」などが有名で、静かなモチーフなのに深い色調、微妙な光さえも描き切った抑制された世界は比類なき魅力を放っている。
フェルメールの作品のうち一四点はアメリカに在り、残りの作品はヨーロッパ各地に散在、オランダにはアムステルダムに4点、ハーグに3点の7点があるにすぎない。ドイツに6点、英国に5点、フランス2点、あとはウィーンとスコットランドにある。すべて見て歩くのは困難で、公開していない個人蔵とかバッキンガム宮殿所蔵の作品など、運が良くないと見ることはできない。
私自身はこれまでに30点のフェルメールの作品と「1つの額縁」を見てきた。「1つの額縁」というのは、ボストンのガードナー美術館で、1990年に盗難にあい額縁だけが飾ってある「合奏」を無念の思いで見たということである。芸術には様々な鑑賞の仕方があるが、フェルメールの美術的評価は専門家に任せ、フェルメールが生きた時代背景を考察しておきたい。
フェルメールの生きた時代
フェルメールは1632年に生まれ、1675年に43歳で亡くなった。アメリカ史とオランダ史を重ね合わせて考えると、フェルメールの時代が見えてくる。フェルメールが生まれる12年前、1620年にピルグリムファーザーズがメイフラワー号でケープコッドに到達した。ピルグリムファーザーズは英国から米国に渡ったと考えがちだが、実はオランダから渡ったのである。
1608年、分離派と呼ばれるプロテスタントのグループが、イギリス国教会の在り方に不満を抱き、迫害を逃れてオランダに移住した。分離派というのは、「真の教会は、神との契約(コベナント)を実践する公認された人々のみで成立する」と純粋に信じるピューリタンであり、「国民すべてが教会員」として教会を統治手段とする国教会と相容れない人々であった。同じくプロテスタントの国オランダに逃れて十数年が経過する内、英国人としてのアイデンティティー維持に悩み始めた彼らは、自分達の信仰のより純粋な実践のために最良な場を求めてアメリカ大陸へ渡ることを考えるようになった。
最初は、1607年から英国による入植が始まっていたバージニアのジェームズ・タウン付近への移住を希望したが、国王が「宗教の自由」を認めなかったので断念し、アメリカ殖民の企画会社の権利の一部に出資する形で旅立つこととなった。1620年7月、101人の巡礼始祖は「スピードウェル号」でライデン港を出航、英国で故障したこの船を「メイフラワー号」に乗り換えて新大陸に向ったのである。メイフラワー号は予定よりもはるかに北方のニューイングランドの地に到着(12月21日)、その土地を彼等の出身地にちなんで「プリマス」と名付け留まることを決めたのである。過酷な移住であり、最初の冬を過ごす間に過半数が死亡、わずかの人々がインディアンの助けで何とか生き延びることができた。翌年秋、最初の収穫を得た人々が神に感謝したのが「感謝祭」の始まりであった。
その頃、オランダは1519年にスペインの支配下に入ったが、1568年から1648年まで80年間も続いた対スペイン帝国独立戦争の只中にあった。1588年には、スペインの無敵艦隊が英国に敗れ、スペイン海洋帝国は衰亡期にさしかかっており、オランダも1609年に独立戦争を戦う北部七州とスペインとの間に12年間の休戦条約が成立し、事実上の独立を果たした。民主的な連邦共和国としてスタートしたことが、17世紀オランダの大発展を生むのである。世界初の株式会社といわれる「東インド会社」も1602年にオランダでも設立され、「西インド会社」とともに艦隊から軍隊まで持つ強大な組織として海外貿易の発展を支えた。カトリックの重圧から解放された新しい市民社会を生み出したオランダの資本主義は、海外貿易による富によって新しいブルジュアを生み、隆盛の頂点を極めた。
ところで、仙台藩主伊達正宗の命を受け、支倉常長が石巻の月浦を出航したのが、1613年であり、帰国したのは1620年であった。つまり、ピルグリムファーザーズが米大陸に辿り着く2年も前に、支倉は日本で建造した船で太平洋を横断してメキシコに着き、スペイン経由でローマまで行って帰ってきたのである。
支倉のローマ訪問は、スペイン人のソテロという宣教師が案内役として同行したが、当時のスペインの国威を示すプロジェクトでもあった。当時のスペインはメキシコやフィリピンを支配する世界帝国であり、メキシコのアカプルコとフィリピンのマニラを結ぶ定期航路までが開設されていた。支倉がフィリピン経由で帰国したのもそうした背景によるものであった。
支倉の訪欧中に幕府はキリスト教を禁止、キリシタンのマニラ・マカオへの追放や処刑をエスカレートさせていった。1639年にはポルトガル船の来航を禁止、1641年にはオランダ商館を平戸から長崎出島に移転という形で「鎖国体制」は確立された。以来、200年以上、オランダとのこの小さな接点が日本と西洋社会を結ぶ「窓」となったのである。フェルメールの時代は、極東の島国日本では三代将軍家光から四代家綱の時代で、島原の乱(1637〜38年)を経て幕藩体制を確実なものとしていった時代であった。
フェルメール再考
スペインの海洋覇権を突き崩して台頭するオランダは、海運と貿易による富で「バブル景気」ともいえる繁栄を謳歌した。とくに、1618年からの30年間もヨーロッパに吹き荒れた宗教戦争たる「30年戦争」の渦中にあっても、オランダは欧州中の避難民がもたらす財産、技術によって独り安定と繁栄を享受することができた。「バブル」は極端な形で進行、世に「チューリップ投機」といわれるごとく、カネの行き場を求めて、投機の対象は新種のチューリップまでに及んだ。
そうした時代は芸術・文化の揺籃器ともなった。芸術を支えてきた王侯貴族が存在しない政体の下で、金を持った市民、ブルジュア達が絵を注文することが流行し、レンブラント(1606〜1669年)とレンブラントの時代が成立した。有名な「夜警」も描かれた人達が金を出し合って注文した記念画でもあった。レンブラント工房のようなものがビジネスモデルとして成りたつ時代だったのだ。晩年のレンブラントは、放蕩と浪費の結果、前半生の「人気絶頂の芸術家」の地位から転落するが、それでも17世紀オランダの栄光を象徴する存在であった。
そんな時代環境の中を、正にレンブラントとは対照的に、ハーグとアムステルダムの中 間に位置する端正な町デルフトを生涯離れることなく、フェルメールは清貧にひたすらカンバスに向かって生きた。フェルメールがその生涯を終えた時、未亡人は11人の子供達を抱えて裁判所に自己破産を申請せざるをえなかった。パン代の借金のかたに二点のフェルメールの作品を手放さざるをえなかった。レンブラントとフェルメールはこの時代のオランダの光と影ともいえる。
オランダの繁栄の前に立ちはだかったのは英国の嫉妬であった。オランダ商船の締め出しを狙った「航海法」を巡って1652年に始まった英蘭戦争は1672年の第三次英蘭戦争へと断続的に続き、イギリスと連合したルイ14世のフランスの侵攻によってオランダの衰退は決定的となった。そんな祖国を見つめながらフェルメールは死んだのである。

