連載「脳力のレッスン」世界 2003年10月号
日本人の国際認識の死角
「国際連合」という世紀の誤訳
サンフランシスコのオペラハウスは日本人にとって思い出の場である。1951年9月、ここで対日講和条約が調印され、日本は国際社会への復帰を果した。の国論を二分する「単独講和か全面講和か」という論争の末に、吉田茂は「西側陣営の一翼を占める形での国際社会への復帰」を選択し、「戦後日本の国際関係」の基本型を構築した。
このオペラハウスは、実は「対日講和条約調印の場」という以上の歴史的舞台となった。対日講和会議の6年前、1945年4月25日に、ここで国際連合設立会議が開催されたのである。50カ国が参加し、最終合意された「国連憲章」への調印がなされたのは2ヶ月後の6月25日であった。
会議直前の4月12日に、国際連合構想の推進者であった米国の大統領フランクリン・D・ルーズベルトが突然の脳溢血で他界するという不幸に襲われたが、新任のトルーマン大統領によって予定通り実現、サンフランシスコには50カ国からの代表282名や1500名を超える随員や専門家、2600名以上の新聞記者が押しかけた。会議開催中の5月7日にはドイツが無条件降伏、会議最終日の前日に沖縄での戦闘終結と、最終局面を迎えた第二次大戦下での「戦後世界秩序」を巡る「戦勝国による会議」であった。
日本人が東京大空襲から沖縄戦に突入し、「ヒロシマ、ナガサキの悲劇」に向けて苦悶していた頃、太平洋の向こうでは、戦後世界の在り方を方向付けた「連合国」の会合が行われていたのである。かねがね疑問に思っていたことだが、UNITED NATIONSを日本語で「連合国」ではなく「国際連合」と訳した理由は何だったのであろうか。自然に訳せば、UNITED NATIONSは「連合国」であり、中国では現在も「連合国」と訳されている。実は、日本・ドイツなどの「枢軸国」に対する「連合国」の合議体にすぎなかったUNITED NATIONSを普遍的な世界機構であるかのごとき印象を放つ「国際連合」と翻訳したところに戦後日本の国際関係を性格付ける鍵が潜んでいるのである。
「国際連合」の成立史を辿れば、F・D・ルーズベルトの「大国による世界警察制度創設構想」に発することは確かである。元々、1941年8月の大西洋憲章会議の時点でのFDRは、米英二カ国のアングロ・アメリカによる警察制度という考えだったが、43年11月のテヘラン会議の時点では、ソ連・中国(蒋介石の国民政府)を加えた「四人の警察官」構想へと変化していた。さらに、44年八月から十月にかけてワシントン郊外のジョージタウン地区にあるダンバートン・オークス邸において行なわれた「米英ソ三国会議」「米英中会議」で、ソ連の提案によって「フランスを加えた5大国による常任理事国制度」「5大国の全会一致を原則とする拒否権制度」という今日の国連制度の骨格が固まったといえる。
つまり、こうした経緯は、米国にとっての「国連」の本質があくまで「連合国」であり、淵源的には、米英による世界警察制度に回帰する性格を内在させることを思い起こさせる。それを、改めて強く思い知らされたのが、今回のイラク戦争における米国の国連への姿勢であった。国連の承認を得られないままにイラクへの軍事攻撃に踏み切った米国の本音には、「国連は究極的な国際意思決定機関である」と思い込みがちな我々とは全く別の認識が根強く横たわっているのであろう。
ともあれ、戦後世界の在り方を大きく方向付けた「国際連合憲章」を決めた会議が、6年後の対日講和会議の舞台となるオペラハウスで行なわれたのである。余談だが、この国連憲章制定会議に、イラクは皮肉にも国連の原加盟国として参加していた。当時のイラクは、1932年に独立はしていたが、英国の影響下にある王制国家であった。
これからの国連に向けて
イラク戦争に向った経緯を目撃し、「国連は機能しなかった」という失望感から、「もはや国連による集団安全保障の時代ではない」という性急な議論がなされている。しかし、国連の基本性格が第二次大戦の戦勝国による「連合国」であったことを考えるならば、国連は単にその加盟国が191カ国にまで増えたというだけでなく、21世紀の「全員参加型国際秩序」形成に向けて進化し、機能し始めていると思う。
イラク攻撃開始を前にした国連安保理事会を舞台に米英と独仏で綱引きが続いた時、パウエル国務長官は「安保理事会の過半数をこえる9カ国の支持は集まる」との認識を語っていた。しかし、結局は米国の思い通りの展開とはならなかった。
外交の専門家達は「フランスはしたたかな国であり、条件闘争の挙句に、最後にはイラク攻撃に参加する」とか「中間派非常任理事国六カ国のうち三カ国はアフリカの国であり、経済協力次第で米国支持に回る」などと訳知り顔で解説していた。アフリカの非常任理事国三カ国の一つがカメルーンだったことを受けて、「あのワールドカップでの中津江村のお騒がせ国のカメルーンが世界の運命を決める一票を行使するなんておかしい」という無神経なコメントさえなされていたのを思い出す。それでも、それらの国は最後まで米国を支持せず、逆上した米国は、国連の承認なき「単独攻撃」に踏み込んだのである。 情報ネットワーク時代の国際的意思決定においは、「利害損得」だけでなく、整合性と体系性ある政策判断が無ければ、自国の世論や国際世論において評価されない形が見えてきており、衆人監視の下での正当性が問われるのである。
皮肉を込めていえば、国連は機能しすぎるほど機能し、第二次大戦の戦勝国の利害共同体的性格を超えて、超大国のエゴをも牽制する世界機構となりうる可能性に踏み込んだのである。冷戦期の米ソ対立を調整する儀式の場でもなくなったこと、そして米欧対立により「大西洋同盟」が単純に機能しない時代を迎えたことをも示したのである。また、途上国をはじめとする世界中の国々が、自らの視点に立った主張を行い、それぞれの国が「21世紀の国際秩序」にどのような見識を持って臨んでいるかを明らかにし始めたのである。
イラク戦争後の経緯をみても、イラク統治の正当性を維持するためにも、米英は次第に国連による支援を必要とし始めている。攻撃開始以来の米英軍の死者が、事故などによるものも含めて300人に迫る(2003年8月末現在)という現状を踏まえ、イラク占領を「国際化」することで、リスクとコスト負担を分散しようという米英の意図も背景にあるが、米英だけでは制御できなくなっていることも確かなのである。
米国による力の論理が吹き荒れているように見える現状においても、実は世界は着実に「国際法理と国際協調による制御」へと前進しているのである。米国が参加を拒否した注目のICC(国際刑事裁判所)も、本年3月17日にオランダのハーグに正式に設立された。国境を超えた組織犯罪や人道に対する犯罪、戦争犯罪などを「国際刑事訴訟手続き」を構築することで裁くことは、積年の課題であり、それがついに実現したのである。既に90カ国以上が参画し、イラク攻撃に参加した英国も参加している。隣の韓国は、18人の裁判官のうち1人を送り込んでいる。
米国ブッシュ政権は、「米国民が第三国で刑事犯として逮捕され、不公正な裁判の犠牲とされることを拒否する」という理由でICCから離脱した。牽強付会な理由だが、沖縄での犯罪のごとく、世界中に展開している米兵が刑事犯として逮捕され、ハーグに数珠繋ぎという悪夢を想定すれば、胸を張って参加できないということかもしれない。
世界は確実に、力の支配ではなく、国際法理と国際協調による制御の方向に向っている。そのことを示す一つの座標としてICCは注目されねばならない。日本はすべての予備会議に参加したのだが、今日現在もICCを批准しようとしない。これが、国際社会にさらす日本の現実なのである。

