寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2003年8月号

進行する社会階層革命—総保守化をもたらす背景

十数年前、日本が「バブル」だといわれた頃、東京のサラリーマンの間では「一生かかっても東京都内にマンション一つ買えない」という溜息が聞かれた。その頃、7〜8千万円の借金をして、何とか郊外に住居を手に入れた同僚が羨ましがられたものだ。もっと羨ましがられたのは、先祖伝来の資産を持っている者で、資産家が、圧倒的な優位を享受できる時代だった。

その頃、サラリーマンの夢物語として、「もし1億円の金があれば左団扇なのだが」という話が成立した。つまり、1億円の金融資産があれば、年5%程度では運用できて、500万円程度の利息収入を得ることは容易という意味であった。しかし、「ゼロ金利」といわれる時代を迎え、この夢は脆くも崩壊した。

今、銀行の定期預金などで安定的に運用し、一体いくらの金融資産があれば年間500万円の利息収入になるかを問い掛けたならば、事態の本質が見えてくる。少なくとも60億円である。従って、この十数年で日本に進行したことは、フローで年500万円の収入のある人と、60億円の金融資産を持つ人とが経済的には等価になったということであり、「資産家の没落」を象徴する話である。金融資産が利息を産まないだけでなく、土地などの不動産や株の値下がりによる資産の目減りは、この国の富の分配構造を変え、そのことの波紋が日本社会の深層に大きな影響を与えているのである。

サラリーマンの虚偽意識

極端な資産デフレの進行の中で、日本における富の分配構造は「ストックからフローの時代」、つまりフローとしての収入のある者が優位の時代になった。本誌昨年12月号のこの連載において、サラリーマンの危機意識が少ない状態を「ゆでガエル」と表現し、資産家が立ち眩みが起こるほどの被害者意識を保有しているのとは対照的に、サラリーマンが怒りも無くなんとなく生活を繰り回している状況に言及した。そして、「直近の4年間は下がっているものの、10年前に比べれば、サラリーマンの平均年収は10.0%増えている。これに対して、消費者物価は、10年前比で6.5%の上昇であり・・・・・・」として、この段差、つまり収入と物価の相対バランスの中で、「デフレ経済へのソフトランディング」という心理が芽生え、被害者意識無き生活に埋没していることを示唆した。

2002年の統計が発表になり、その後の状態を確認してみた。サラリーマン一人あたりの現金給与総額は576万円と、ピークだった97年の613万円に比べて37万円も下がったが、それでも90年の540万円に比べると6.7%増である。これに対して、消費者物価の上昇は、90年比5.8%と、数値的には依然として、「10年前に比べ、収入増加ほど物価は上がっていない」という構図が持続している。しかし、この一年で、10年前比の収入と物価の上昇率の格差は、01年の3.5から02年の0.9まで縮小しており、ゆでガエルが臨界点を超えて飛び上がるタイミングが迫っているともいえる。

「10年前に比べれば収入が増えている」といわれても、現実にはサラリーマンの生活は急速に窮乏化している。この数年の給与圧縮傾向に加え、公的負担の増大が重くのしかかりつつある。年金の負担増、介護保険をはじめとする各種保険負担増により実質的には可処分所得は落ち込んでいる。サラリーマンが本気で怒り出しても不思議ではない状況になりつつある。

にもかかわらず、サラリーマンは置かれた状況に怒ることもなく、「痛みに耐えて」などという無責任な政治のメッセージをじっと受け止め、生活保守主義の中を漂っている。理由は、組織に帰属して一定の安定的フロー収入が確保されている立場の人間は、資産家の没落という状況を見つめながら、相対的に所得階層が浮上したという誤認が生じているためである。自分自身も苦しくなって、生活基盤は下方に落ちているのだが、相対的な虚偽意識として、「しかたがない。俺はまだましだ」という諦めが怒りを鈍らせているのである。

変革の意思を結集する基点の喪失

この諦めが、「総保守化」ともいうべき時代の空気の温床であり、国民意識に潜在する怒りを結集する基点が失われつつあることが閉塞感を増幅しているのである。

真実を直視するならば、現代日本における「弱い立場の人間」は、経済の低迷の中で確実に増え続けている。失業者は1990年の125万人から380万人へと255万人も増えた。また、企業が「コスト削減」のために、可能な限り正社員ではなく「派遣、パートタイマー、嘱託」などによって職場を維持しようとする傾向を受けて、正規の雇用者ではない立場の就業者は2000万人を超えたと推定される。

昨今話題の「フリーター」というのは、当事者の意識からすれば、特定の組織に縛られず自由に様々な仕事を渡り歩く生き方なのだろうが、社会的には「未熟練、未組織、低賃金」の弱い立場にあり、臨時雇用者に含まれてしまう存在である。

注意すべきは、これらの臨時雇用者の増大は、必ずしも企業の「コスト削減」志向だけが理由ではなく、IT革命などの技術革新によって「仕事の中味」が変化していることによるものだという点である。つまり、ITの労働現場への定着によって、仕事の中味は平準化し、「余人をもって代え難い仕事」ではなく「誰がやっても同じ仕事」になってきた。流通業の現場におけるレジの管理をイメージすれば分り易いが、バーコードを光学読取機でなぞり、コンピューターが集計してオンラインでデーター管理する時代においては、現場において熟練や年功は不要となり、パートやフリーターでも簡単に担えるような仕事になった。

近年、「アウトソーシング(外注)」とか「ワークシェアリング(雇用維持のための労働時間調整)」などが新しい経営の在り方とされるが、冷静にいえば外注したりシェアリング(分担)したりできるほど、仕事の中味が平準化されてしまったということでもある。こうした状況は一人一人の働く者を「個」に分断し、「アトム化」している。企業への忠誠心も職場の先輩後輩との仕事を通じた連帯感も希薄化し、それぞれが「砂のような個」となりつつある。

働く者の共通の利害の結節点であった「労働組合」の現状がそれを投影している。日本の労働組合運動の中核たる「連合」の組織率は20%を割った。そして、連合に組織化されている「労働者700万人」の大半は、大企業の正規の社員と公務員である。つまり、労働組合運動の活動主体の大半が、年収500万円以上の組織帰属型の安定したサラリーマンであり、「弱い立場の存在」どころか、相対的には既得権益を保持しようという心理に陥りがちな存在になりつつある。正規の組織化された雇用者にとって、派遣社員やパート、フリーターは、自らの雇用条件を引き下げる要因となりかねない存在であり、相互の連帯を図ることは容易ではないのである。

状況を再考察するならば、国民の危機意識や問題意識を拡散させている構造が重く横たわっていることが見えてくる。かかる状況下で国民の変革への意思を束ねて方向付けすることは至難であり、それ故に「総保守化」ともいうべき精神の退嬰が蔓延しているのだと思う。しかし、社会的に弱い立場にある存在に着目し、様々な不条理を拒否する強い問題意識こそ、政治指導者、知識人、ジャーナリストに求められる要件であろう。そして、これまでのイデオロギーや社会科学が変革の基盤となりえそうもない今こそ、我々自身が考え抜いて、ゆでガエルを脱した変革論を準備する覚悟が求められるのである。