連載「脳力のレッスン」世界 2003年7月号
見えてきたアメリカニズムの終焉
米国の圧倒的勝利による軍事力の凄みをみせつけられて、世界は「力の論理」が支配する時代に向いつつあるという幻惑を覚えがちだが、現実に見えてきたのは「力の論理」の限界である。
露呈してきたのは攻撃の論理の矛盾である。リーダーたるものには、その主張に利害打算を超えた「正当性」が求められる。錯綜する多様な利害を束ねる理念が、主張の根底になければならないからである。
あれほど強調された「大量破壊兵器」はどうしたのだろうか。少なくとも、イラクは大量破壊兵器を使わなかった。そして、米国が攻撃理由としていた「500トンの化学兵器、3万発以上の化学兵器用弾頭、炭素菌などの病原体」は発見されていない。
また、「石油のための戦争ではない」というのが、イラク攻撃の最低限度の正当性だったはずだが、その後見えてきた「米国の本音」は、あからさまな権益の確保である。五月中旬に米国が国連に提出した「イラクへの制裁解除決議案」は、これまでサダム・フセイン体制下で、国連によって管理してきた「石油食糧交換プログラム」を廃止し、米英主導による「イラク支援基金」によってイラク原油を管理することを明らかにした。予想されるのは、復興資金確保のための原油増産であり、産油国によって支配されてきた石油需給は、73年の石油危機以来30年ぶりに石油消費国支配へと回帰することになるとの見方もある。しかし、これも米国の思惑どおりにはいかないであろう。注目すべきは、アラブ産油国の動向である。とくに、石油の決済通貨において、アラブ産油国の「ドル離れ、ユーロ選択」の傾向が強まっている。本質は米国による石油支配への反発であり、これこそが米国にとって悪夢のシナリオであり、「戦勝にもかかわらず続落するドル」の背景に見えてきた要素なのである。
イラク戦争を巡る米欧の亀裂に関して興味深い表現がある。それは「ホッブスのアメリカ対カントの欧州」というフレーズであり、ロバート・ケーガンの著作"Paradise & Power―――America and Europe In the New World Order"(Atlantic Books、2003)に由来するものである。つまり、米欧亀裂の根底には、世界秩序の制御を巡る哲学的対立軸が存在するという見方である。ホッブスとは、「万人の万人に対する闘い」を制御するのは力であり、「力こそ正義の源」とする思想の象徴であり、これこそが今、米国が掲げる価値である。これに対して、カントとは「恒久平和論」を論じ、国際法理と国際協調システムの構築を構想した哲学者によって現在の仏独の志向を象徴させるものである。
戦争という究極のパワーゲームを目撃すると、もはや国連などの国際機関や集団安全保障システムは機能しないという議論さえ存在する。しかし、それは正しくない。世界は着実に国際法理と国際協調システムが機能する時代へと向いつつある。イラク戦争に向う瞬間、国連安保理事会は機能しなかったという見方があるが、実は機能しすぎるほど機能したともいえる。玄人の外交筋は「したたかなフランスはやがて妥協する」とか「安保理中間派とされた非常任理事国の六カ国は、経済援助などの条件如何では米国支持に回る」と解説していたが、情報化時代における世界注視の中で、最後まで超大国米国のエゴは通用しなかった。「戦後復興」にしても、「中東和平」にしても、結局は米国だけで仕切りきれる時代ではなく、国際協調による正当性が求められてくるであろう。
改めて、イラク攻撃を実行したブッシュ政権を注視してみて、我々は極めて特異な政権に付き合っているということを確認せざるをえない。俗に「ネオコン」(新保守派)といわれる人達の影響力が極端に強い政権という特色をブッシュ政権が有していることは間違いない。米国の力(軍事力)で米国の理念(民主主義)を実現することに使命感を抱く人達が存在すること自体、驚くに値しない。しかし、これらの人が政権の中核を占め、「9.11」への米国民の衝撃と恐怖心をテコに米国の政策を主導する流れを主導しているのである。
米国という国の本来の姿は、「開かれた国」であった。多民族、多宗教を許容し、様々な人々に新規参入のチャンスを提供する「機会の国」であり、それがこの国の発展をもたらしてきた。しかし、米国は今、偏狭な価値を掲げた排他的な「閉ざされた国」へと舵を切りつつある。世界中の米国大使館が重装備の警察と軍隊によって防備を固めねばならない様相をみると、アメリカというシステムは憔悴し、開放的アメリカニズムの光は色褪せつつあることに気づく。無論、米国は多様性の国であり、復元力を期待し、確信する。ちょうど、1950年代の初頭に、「反共パラノイア」ともいえるマッカーシズムが吹き荒れたがごとく、我々が目撃しているのが、瞬間風速的な政治のうねりだと認識すべきであろう。
露呈した日本なるものの実像
もう一つ、イラク戦争の中で、白日の下に曝け出されたのが、日本なるものの実像である。結局、この国の政府は国連の決議を無視した米国の武力攻撃を「支持」するという選択しかできなかった。そして、国民も、「北朝鮮の脅威に曝されている日本は、米国の軍事力に頼るしかなく、少々不条理な戦争であっても米国を支持するしかない」という論理に引きずられて政府の選択を追認する心理に陥っている。
つまり、戦争という非常事態への対応において、この国の本質が露呈したということであり、「日本はアメリカ周辺国でしかない」という事実を証明してみせたわけである。戦後踏み固めてきたはずの「武力をもって紛争解決の手段としないとする平和主義」や「国連中心の国際協調主義」が便宜的なものにすぎず、米国の都合によってはいかようにも変更されかねない性格のものだということを自ら認めてしまったのである。イラクのみならず米国自身さえもが保有する大量破壊兵器の廃絶について日本が国際社会に発言することはなかった。
21世紀の国際関係の中で、この国はいかにあるべきか。我々の目の前にある選択が、不条理な殺戮を支持し、武力によって自分勝手な価値を押し付けることを「正義」とするような空虚なものであっていいはずがない。
我々が真摯に問い掛けるべきことを、深呼吸して考えてみよう。アジアの目線から見た時、期待できるアジアのリーダーと映ったであろうか。中国の台頭の中で、アジアの人々は、中国への警戒を内包しながらも、これからのアジアをリードする国がどこになるのかを意識している。「仮に日本が国連の安保理常任理事国になったとしても、それは米国の一票を増やすにすぎない」とアジアの人々は日本を見ている。中国は、「米国との関係を決定的に損なわない範囲において、イラク攻撃に反対する」ことによって、アジアの人々にも「主体性」を印象付けた。
この国のとるべき安全保障戦略の前提となる「二つの常識」を確認しておきたい。一つは、独立国に外国の軍隊が長期にわたり駐留することは異常なことだ、という常識である。「冷戦」が終焉しても、米軍基地の縮小と地位協定の改定を問題意識として示さないような国を国際社会は一人前の大人の国と認知するであろうか。二つは、米国は自らの世界戦略の枠内でしか日本を守らない、という常識である。日本に「有事」があれば、日本のために駆けつける「善意の足長おじさん」ではない。そのことは、尖閣諸島を中国が武力占拠するという事態が起ったと仮定してみれば、容易に分るはずである。米国が、自国の青年の血を流してまで、日中間の領土問題に介入すると期待するほうがおかしい。
21世紀の日本外交に問われるべきは、米国への過剰依存と過剰期待を脱却して国家としての「主体性」を取り戻すことである。「対米関係の再設計」、それこそが我々の世代の課題である。諦めと固定観念を脱し、真の国益を熟慮して「自らの運命を自らが決する」決意を抱くべき時である。

