連載「脳力のレッスン」世界 2003年5月号
戦争に向かうワシントンで考えたこと
悲しいワシントン訪問だった。3月17日、ブッシュ大統領は国連安保理に英国などと共同提案していた「新決議」を取り下げ、「48時間以内のサダム・フセインの国外退去がなければ、武力攻撃を開始する」という最後期通告をした。
奇妙な理屈が提示されていた。昨年12月の国連決議1441に基づく武力行使であり、国際法上合法という主張だが、国連での討議・採択という手続きを拒否しながら、他方で国連決議に戦争の正当性を求めるというのである。
そして3月19日、帰国便の太平洋上で、米軍によるイラク攻撃開始を聞いた。記憶が蘇った。12年前の湾岸戦争での米軍の攻撃開始も、ニューヨークからの帰国便の中で聞いた。あの時も、米国の中東戦略の失敗の帰結ともいうべきイラクのクウェート侵攻を、米国自身が始末しなければいけなくなった皮肉にため息がでたものだ。なにしろ、81年から8年間も続いたイラン・イラク戦争において、米国は、ホメイニ革命後のイラン憎さでサダム・フセインを支援し、この男の野心を増長させ続けた。それでも、湾岸戦争にはクウェートの主権回復という大義があった。しかし、今回のイラク攻撃は国際社会の承認も得られないという米国外交の失敗の帰結である。にもかかわらず、日本政府は揺れ動きつつ、結局は「米国支持」を打ち出した。
惨めな日本のイメージ
米国を支持する理由は、「非はイラクにあり」ということで、国連査察を欺き大量破壊兵器を隠し続けてきたとの判断があり、もう一つは、「日米同盟の重要性」に鑑み米国を支持することはやむをえないことだとされた。
しかし、この説明には事態の本質と微妙なズレがある。米国が戦争に踏み切った本音と段差があるからである。米国は、イラク攻撃の理由を当初は「テロとの戦い」と説明していた。しかし、現在も9.11テロへのイラクの関与は検証されていない。次に、米国は「大量破壊兵器」をキーワードとした。しかし、結局のところ国連の査察の最終的結論のでない段階で、単独主義的「武力攻撃」に踏み切った。つまり、米国の本音は、大量破壊兵器の隠匿が事実であろうがなかろうが、武力によるサダム体制の転換こそ真意だったというべきなのである。先制攻撃も敵対的行動も受けていないのに、他国の体制転換を軍事力によって強行することは、国連憲章や国際法からも正当性に欠けるものだが、日本は国民的議論もなく、米国の行動を支持したのである。
国際法理上許される強弁しても、イラク国民の殺戮を平然と許容する日本でよいのであろうか。この論理は半世紀前に日本自身が涙を飲んだ論理でもあった。東京大空襲、ヒロシマ、ナガサキも、軍国主義日本の非の帰結であり、日本国民の悲劇もそれを許容した咎ということにされた。
「信頼される同盟国でありたい」との認識からの米国支持は、ワシントンの政策関係者からは「米国の期待に沿った当然の支持表明」と受け止められていたが、日米関係を知悉する「ジャパノロジスト」の中には、フランスをあからさまに批判してまで米国を支持する日本に当惑し、「なぜアメリカの主張と全く同じなのだ」と失望感を漂わせる人も少なくなかった。アジアや中南米からワシントンに展開している外交官やジャーナリストに至っては、「日本はアメリカ周辺国でしかない」という幻滅感を抱いており、日本の外交政策は「あえて話題にする特色もない」ととらえられていた。
戦争というような究極の事態に直面した時、国と民族の真価が試される。国際社会を動き回る日本人としては、故郷日本が広く世界から敬愛される存在であってほしいと切望する。その意味で、日本は堂々と主張すべき政策個性としての二つのポイントを見失っていたといわざるをえない。一つは、憲法精神の積極主張である。「軍事の論理」が押し切りがちな傾向の中でこそ、「武力をもって紛争解決の手段としない」思想は強調されてしかるべきものである。これが日本の信念体系であることを示すべき時であった。二つは、イラクのみならず世界の大量破壊兵器廃絶への主張である。大量破壊兵器についての世界の関心が高まっている時にこそ、「ヒロシマ・ナガサキの悲劇」を体験した国として、包括的核実験禁止、核不拡散のための国際ルール造りに向けた執拗な主張をすべきではなかったか。
「悪を懲らしめる正義の保安官」気取りの昂ぶる米国の論理からは、日本は「口だけの臆病者」となり、イラク攻撃を主唱した「新保守派」の中核たる国防副長官ウォルフォウィッツは、米国に賛同しない国に対して「厄介な問題はアメリカが引き受け、成果だけにただ乗りする」という批判を隠そうとしない。こうした米国の目線に対して必要なのは、むしろ「堂々たる臆病者の論理」である。「力の論理」を否定する憲法精神は、世界に訴えるべき日本外交の基軸だということである。米国にとっても、日本が米国の「力の論理」に触発され、自前の核装備さえ志向する国に向かうことは不利益なはずである。
瞬間風速的には、米国の「力の論理」が突出し、国連などの集団安全保障システムを空洞化させているかに見える。しかし、世界は着実に国際法理と国際協調システムが機能する時代へと向かいつつある。玄人の外交筋が、「やがてフランスは妥協する」とか「安保理中間派の非常任理事国は金で転ぶ」と語っていたが、世界注視の中で、最後まで超大国米国のエゴは通用しなかった。21世紀が、全員参画型の国際協調システムの中で、筋道の通った政策が問われる時代になることを認識すべきであろう。
不思議なユダヤ系の沈黙
戦争直前の米国で、一つ心に残ったのがユダヤ系の人達の沈黙である。1980年代初頭から中東問題にかかわってきたこともあり、米国の東海岸にも多くのユダヤ人の友人がいるが、教養も社会的地位も高く、最も論理的・理性的に時代に発言してきていたそれらの人達が、何故か今回の戦争については口篭もり、パレスチナ問題でのイスラエルの強硬路線を批判して「中東和平」の推進を主張していた人までが「サダム打倒の軍事行動」への支持をほのめかしていた。
イスラエルからのテレビ中継で、「これは自分達のための戦争だからうれしい」と開戦を喜ぶ市民の声が紹介されていたが、イスラエルの生存という利害に直面してきたユダヤ系の人達の本音であろう。イスラエルの脅威としてのサダム体制の打倒はユダヤ系の人達の願望であり、この戦争に米国を向かわせた一つの要素として、米国の政治に強い影響力を持つユダヤ系の人達の圧力と期待が存在することも現実なのであろう。
全米には約600万人のユダヤ人が存在するが、あくまでも人口の3%にも満たない少数派にすぎない。巷間囁かれる「ユダヤ陰謀説」など、誇張と偏見に満ちた俗論である。しかし、3%の少数派が大きな政治的影響力を米国で保持していることも事実である。その理由は様々だが、東部の名門大学IVYリーグの学生の約2割がユダヤ系といわれるごとく、人口比からすれば極端な高学歴志向であることによって、医者、弁護士、ジャーナリストなどの専門職のほか、金融、IT、ハイテクなどの分野に人材を密度濃く配置し、勢い影響力を行使するからといえよう。現実に、過去20年間の米国の対外経済軍事援助の内訳をみると、途上国とはいえない人口600万人程度のイスラエル向が例外なく第一位を続けてきている。
もちろん、ユダヤ系の団体や個人でも、イラク攻撃に反対している存在があることも承知している。3月23日のアカデミー賞授賞式での「戦場のピアニスト」の主演エイドリアン・ブロディのスピーチも感動的だった。それでも、「アンネの日記」「シンドラーのリスト」、そして「戦場のピアニスト」と、ハリウッドへの影響力を背景に、人種偏見と戦争の不条理を訴え続ける作品を積み上げてきたユダヤ系の人達の多くが、目の前にある「不条理な戦争」に沈黙するという構図に人間世界の悲しさを思わずにはおれない。

