寺島実郎の発言

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連載「脳力のレッスン」世界 2003年4月号

不必要な戦争を拒否する勇気と構想 イラク攻撃に向かう「時代の空気」の中で
バベルの塔は何故目立ったのか

バグダッドからイラク南部の街バスラを経てアラビア湾までは直線距離で約750キロであるが、バグダッド市街を流れるチグリス川がユーフラテス川と合流してシャトルアラブ川と名前を変えて河口に至るバグダッドからの総延長距離は4,000キロに達する。流れが急な日本の河川と異なり、ゆったりと流れているからである。驚くべきことに、バグダッドから河口までの標高差は、わずかに数メートルである。

そのことは人類の歴史に大きな意味を持った。旧約聖書にもでてくる歴史的高層建造物「バベルの塔」に思いが至る。バグダッドの郊外に「バベルの塔の跡」といわれる遺跡があり、私自身訪れたことがある。バベルの塔とは土をレンガ状に固めた高さ約90メートルの立方体だったといわれ、100メートルを超す高層ビルを見慣れた今日的感覚からすれば大した高さではない。だが、この塔が海岸線まで700キロの標高差数メートルという平坦な土地の上に立っていたことを想像すれば、何故この塔が歴史的建造物として人々の記憶に残ったのかが分かる。遥か彼方からも目立ったのである。

この地が再び不幸な歴史の舞台になろうとしている。400年近くオスマン帝国の支配下にあったこの地を1914年に英国が占領して以降の歴史を振り返るならば、「大国のエゴと無責任」が繰り返し不幸をもたらしてきたことに溜息をつかざるをえない。民族も宗教も異なるバスラ、バグダッド、モスルの三州を英国が委任統治国家「イラク」として人工的に創りだしたのは1921年であった。

旧約聖書(創世記十一章)によれば、バベルの塔は「頂を天に届かせよう」という人間の傲慢の象徴であり、神はこれを見て「それまで一つだった人間世界の言語を乱し、互いに言葉の通じない存在とした」という。この話に私は強い現代性を感じる。現代におけるバベルの塔とは何か。マンハッタンの摩天楼というよりも米国の存在そのものではないのか。すべての問題を自分だけで解決できるという幻想の中にあるブッシュ政権下の米国を凝視し、今我々はどうすべきかを熟慮の時である。問われているのは理性である。

イラク攻撃に向かう論理の危うさ

多くの人は、9.11の同時テロ以降の展開として「イラク攻撃」が浮上したと考えがちである。しかし、ボブ・ウッドワードの優れた著作「ブッシュの戦争(Bush at War)」が描きだしているごとく、ブッシュ政権は9.11の直後からイラク攻撃を検討していた。9.11とイラクの関係さえ全く検証されていない段階においてである。

伏線としてPNACの存在を指摘せざるをえない。PNACとはProject for New American Century(新しいアメリカの世紀のためのプロジェクト)という政策シンクタンクであり、軍事予算を3割削減したクリントン政権の政策に不満を抱く共和党タカ派、民主党ネオ・コンサーバティブ派、産軍複合体関係者によって1997年に活動を開始した。中心人物は、湾岸戦争時の国防長官であったチェイニー現副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウォルフォヴィッツ国防副長官、ボルトン国務次官、アミテージ国務副長官、エイブラムスNSC(国家安全保障会議)中東政策責任者であり、現在のブッシュ政権の中核的存在が顔を並べている。この政権にはPNACの思想が深く埋め込まれている。

彼等の主張は、「米国防衛の再建」(2000年9月)などの報告書に集約されるが、その中味は「軍事力を背景に市場経済と人権と民主主義という価値を世界に定着させる」というアメリカ至上主義的論理に特色づけられ、それが2002年9月にブッシュ政権が発表した「新外交ドクトリン」に反映されたことは間違いない。そして、PNACの設立当初から「サダム・フセイン政権打倒」が主要な活動目標の一つとされていた。つまり、9.11が起こったから「アフガン攻撃」があり、次なる帰結として「イラク攻撃」が浮上したのではないのである。初めにイラク攻撃シナリオありきで、ブッシュ政権のそうした特異な性格を見失ってはならない。

PNACの論理を突き詰めると、「東西冷戦を終わらせたのはレーガンの力の外交」という歴史観が横たわっている。つまり、「悪の帝国ソ連を崩壊させたのはレーガン軍拡」という認識に立ち、力対力で問題を解決していくという思考である。しかし、冷戦終焉の過程を冷静に解析した研究が示すことは、東側の崩壊は内部からの自壊であり、SDI構想など外部からの軍事圧力など周辺的要素であったという事実である。国民を幸福に出来ない専制や統制、強制や弾圧は、長い目でみれば決して持ち堪えることはできず、とくに「情報化」によって国際社会との相互交流が深まる時代において「不条理な専制」は自壊するということである。

湾岸戦争の怨念をひきずった屈折した心理と役割意識肥大症ともいうべきアメリカの価値への陶酔、それを「新しい帝国主義」と呼ぶ人もいるが、我々は今そうしたゲームに付き合わされているのだ。

攻撃理由の微妙な変化――「テロとの戦い」から「大量破壊兵器」へ

9.11以後、イラク攻撃の理由は「テロとの戦い」という文脈で説明されていた。テロ実行犯とイラク・エージェントとの接触などの情報が流されていた。だが、テロ実行犯19人(うち15人はサウジアラビアのパスポートで米国に入国)とアルカイダとの直接的関係さえ検証されていない。アルカイダとイラクの関係を印象付ける様々な情報が語られたが、2003年2月のパウエル国務長官の国連での報告でも、アルカイダ残党の一部がイラク北部に逃れているというもので、9.11とイラクの関連など触れられていない。

イラク攻撃の根拠として「テロとの戦い」が使えなくなるにつれて、米国は「大量破壊兵器」という言葉を使いはじめた。テロリストに供与する可能性があるかもしれない大量破壊兵器をイラクが保有し、しかも国連決議に違反してその廃棄に協力しないから「武力行使」なのだという。

原点に還って、戦争を選択せざるをえない理由を筋道立てて考えてみよう。もし本当に「テロとの戦い」というのであれば、先行してやるべきことがある。それは、テロという国境を超えた組織犯罪を処断する国際刑事訴訟システムを構築することである。幸い、欧州諸国が主導する形で、昨年六月末に六〇カ国以上が批准したために、「国際刑事裁判所」(ICC)がオランダのハーグに設立されることが決まった。

9.11の直後、ブッシュ大統領は衝撃のあまり「これは犯罪ではなく戦争だ」と叫び、アフガン攻撃に至る政策を選択した。あの時点での米国民の衝撃と怒りを考えたならば、やむをえない選択だったかもしれない。しかし、時間の経過とともに判明してきたことは、やはり9.11は19人のテロリストによる組織犯罪であり、こうした人道に対する卑劣な犯罪行為を裁く国際刑事訴訟システムの構築に米国こそ先頭に立つべきであろう。ところが、ブッシュ政権はICCへの参画を拒否した。理由は「米国民が第三国で不公正な裁判の被告になることを拒否する」というものであった。環境問題における「京都議定書」からの離脱と同じく、「自分を国際ルールで縛るな」というユニラテラリズム(自国利害中心主義)極まる話である。

「大量破壊兵器」「国連決議違反」という理由も、熟慮すれば首尾一貫したものではない。まず、国連決議違反を理由に武力攻撃というのであれば、1967年の第三次中東戦争後にイスラエルの占領地撤退を求めた国連決議二四二はどうなるのか。イラクに対する国連決議は憲章第七章に基づくもので、「武力行使も容認」しており、イスラエルへのそれは憲章第六章に基づくもので、「平和的解決」を目的とするものだとの説明もある。しかし、イスラエルの撤退を求めて米国が如何なる圧力をかけてきたであろうか、明らかにダブルスタンダードであり、国際法理に基づく正義の戦争も実は筋道が通ったものではない。また、仮にイラクが大量破壊兵器を保有していたとしても、大量破壊兵器を保有している国はイラクだけではない。米国自身が最大の保有国であり、「大量破壊兵器の廃棄」を求めるならば、世界全体から脅威を取り除くための制御システムこそ議論されねばならない。

戦争に向かう米国の社会心理――経済不安と軍事的全能の幻想の谷間に

米国経済は不安の中にある。昨年一年間だけで株価はDOWが17%、NASDAQは32%も下落した。DOWについていえば、過去10年間で4倍になるという高騰をみせ、その資産効果で個人消費も含めて米国経済が回ってきたともいえる。それだけ株価が高水準を維持できた理由は、世界中の資金が米国に向かうという状況を実現してきたからであり、2001年から遡る10年で、米国は累積1.9兆ドルもの経常収支赤字を積み上げながら、それを補って余りある海外からの資金流入によって繁栄を謳歌してきた。

ところが、米国への資金流入に変化が見られ始めた。米国の相対的金利高の解消、ユーロの現物通貨としての流通と評価の高まり、エンロン崩壊に象徴される九〇年代型米国ビジネスモデルへの懐疑などが、「米国離れ」を加速させたといえよう。米国にだけ世界の資金が回る構図は終わりつつある。

経済不安の一方で、極端な軍事力への過信ともいうべき心理が米国に生まれつつある。米国一国の軍事予算額は、世界の第2位から15位までの国の軍事予算の総額を上回る。また、RMA(軍事革命)といわれる時代において、ITを駆使した戦争において米国が圧倒的な力を保有していることも間違いない。衛星でモニターしてトマホークや誘導爆弾を打ち込むリモート・コントロール戦争を実行できる唯一の技術基盤を確立し、イラク攻撃に向けては地下防空壕を無力化するためにRNEP(地中貫通再爆発核)といわれる地中一〇〇メートルまで貫通する戦術核兵器さえ準備しているといわれる。

圧倒的軍事力と経済不安の谷間に「力の行使」への誘惑がある。先述のPNACのT・ドレーニー副事務局長などは「力を積極行使するよう政府に働きかけ、米国の原理原則を世界に広めることが目標」といってはばからないが、世界はこの認識に基づくブッシュ政権の行動にひきずられているのである。9.11以後のブッシュ政権を注視してきて、「カウボーイ・メンタリティー」という言葉を思い起こさざるをえない。「悪漢を懲らしめる正義の保安官」とか「やられたものはやりかえす報復の美学」のようなカウボ−イ映画の主役のごときメッセージは、ブッシュ大統領の言葉にうかがい知れるが、偉大な世界の指導者のメッセージを感じとることはできない。このことは、昨年六月号の本誌にも書いたが、一年が経過しようとしても、世界をどう制御するのかについてのリーダーらしい構想、つまり「戦後ビジョン」が見えてこない。それどころか、国際刑事裁判所構想のごとき新世界秩序を模索する制度設計を否定しようとしているのである。

いうまでもないことだが、米国は移民の国であり、世界中から米国を

最後の希望の地として訪れた人々によって形成されてきた国である。米国で10年以上も生活したことのある私の経験でも、「開かれた国」としての米国の魅力に感動させられた思い出がある。たとえ不法入国者の子供であっても、英語を習得できる特別クラスへの入学を許可し、面倒をみる姿に心打たれたものである。その米国が、9.11以後、急速に偏狭な「閉ざされた国」に変質しつつある。

「21世紀の新しい戦争」再考

この戦争を「石油」という要素と結びつけ、「アメリカの石油支配のための戦争」とする人もいるが、そうした認識は一面的すぎる。確かに、世界第二位の産油国となりうる石油供給力を有するイラクでの紛争に、石油という要素が絡み付いていることも否定できないし、事実、テキサスの石油資本関係者などの中には、「サウジアラビアと米国の関係に陰りがみえる状況において、イラクを世俗化・民主化して親米政権を作ることは米国の国益」といってはばからない人もいる。また、フランスやロシア、中国までがイラクでの石油採掘権を巡ってイラク政府と接触してきていることも確かで、そうした思惑が展望を複雑にしていることも間違いではない。

しかし、ブッシュ政権がイラク攻撃に躍起になる本質的理由が、「石油支配」などという単純な構図ではないからこそ厄介なのである。PNACについて述べてきたごとく、「イスラム中東世界を現代世界に変革」すると本気で思い込み、米国流の民主主義の旗を世界に翻らせ「新しいアメリカの世紀」を創ることを夢見る意図が横たわっているのである。かつての帝国主義が、領土や資源の支配を意図したエネルギーを発散していたのに対して、「人権と民主主義の十字軍」的な思い入れに陶酔しているという意味において「新しい帝国」なのである。

そして、この思い込みが途方もない危険性を内包しているから問題なのである。ブッシュ政権は、昨年九月に発表した外交ドクトリンにおいて、驚くべきキーワードを提示した。「先制攻撃権」という概念である。テロのような背後から虚をついて襲いかかる卑劣な行為に対しては、その芽を持った対象に先制攻撃する権利を有するという論理である。そこから、「テロリストに大量破壊兵器が渡りかねない」というイラク攻撃が正当化される論理が浮上するのである。しかし、この論理は世界秩序を液状化させ際限ない戦闘を誘発するものである。例えば、イスラエルにとってパレスチナはテロリストの基地であり、インドにとってのパキスタン、ロシアにとってのチェチェンなども、すべて「先制攻撃」の対象とされかねないのである。

米国が突入しようとしているイラク攻撃という戦争は、本当の敵を見失った戦争である。本当の敵はテロリストという見えない敵であるにもかかわらず、「屈服しそうな都合の良い悪役」に攻撃を加え、勝利を演出しようとしているようにみえる。テロ、ゲリラなど正規軍の戦いの対象となりにくい「非対称戦争」といわれる時代に、仮にイラクを短期間に屈服させ体制転換させたとしても、問題の解決に近づくであろうか。むしろ、逆であろう。多くのイスラム諸国の人々の米国への憎しみを増幅し、世界中の人々は米国への嫌悪と軽蔑を深めるであろう。それは、イスラム原理主義をはじめとする様々なテロリスト達の温床となり、米国はいつ襲われるかもしれないという恐怖と不安の大国となるであろう。憎悪の連鎖は収拾のつかない恐怖の世界をもたらしかねない。

米国の中からも、ハーバード大学のスティーブン・ウォルト教授のごとく、イラク攻撃の意味と効果を冷静に分析し、「不必要な戦争」(“An Unnecessary War”、Foreign Policy、Jan/Feb2003)と結論付ける見解も語られはじめている。「反戦平和」という立場からではなく「政治的現実主義」の立場から、「イラクの脅威」なるものの実態を評価し、「注意深い封じ込め」で対応することの妥当性を主張するものである。確かに、「封じ込め」など反対陣営の揺さぶりでザル抜けになりがちだった冷戦期と異なり、国際社会が連帯しての「封じ込め」の効果はあなどれない。孤立しては成長も安定も望めない時代なのである。監視の技術的基盤も人工衛星をはじめ整備されてきている。戦争を解答としない、脱近代世界の統治・制御システムが問われているのである。

日本の選択――21世紀らしい新しい外交へ

イラク攻撃を巡って、「21世紀の新しい外交」が姿を見せ始めている。メディア的にいえば「米欧間の亀裂」となるが、国連を舞台にした米国と独仏の論戦は、新しい国際関係を暗示するものといえる。時代認識と思想哲学、そして国益を凝縮した論戦であり、これぞ外交を思わせるものであった。また、2月16日に世界中で繰り広げられた1,000万人を超す人々による反戦デモは、「21世紀の地球をどう制御するか」についての真剣な意思表示であり、これまた新しい時代を暗示するものである。

その中で、日本の沈黙と屈折が際立つ。政府は、国際社会の動向を見極めることが政策の基軸であると語り、「あいまい」であることが「国益」と説明した。そして、「イラクに間違ったメッセージを伝えないため」として、結局は米国を支持してイラクに圧力をかける政策に加担することを選択した。2月18日の国連安保理公開討論での原口大使の発言は、「国際社会の一致団結によるイラクへの圧力」を語りながら実体は米国支持を強く滲ませるものであった。国連決議なしの攻撃さえも視界に入れ、この国は不条理な戦争支持に向けて舵を切った。この経緯は、日本という国の本質を炙り出す契機となった。

多くの日本国民は「結局はアメリカについていくしかない」日本の選択に無力感というか、「しかたがないだろう症候群」に襲われている。今年になって、NHKの日曜討論をはじめ幾つかの機会でイラク問題など国際関係について発言する機会があった。内閣の外交問題アドバイザーでもある岡本行夫氏とも議論することができた。真摯に思考し行動する先達として敬意を抱く岡本氏から「我々の選択肢はアメリカかイラクかである」という率直な発言があったが、大量破壊兵器を隠し持つかもしれぬイラクと半世紀以上もの同盟国たるアメリカのどちらを支持するのかといわれれば、多くの国民の選択は自ずと明らかである。しかし、我々の前にある選択肢はそんな不毛なものであろうか。

むしろ、この固定観念から脱し、新しい外交の選択肢を構想することが、21世紀日本の課題ではないのか。その後、政府関係者の説明において、そこはかとない説得力を持ちつつあるのが「北朝鮮の脅威を抱える日本において、米国との連帯は不可欠である」という論理であり、米国の核の傘によって守ってもらわざるをえない日本にとって、少々筋道が通らなくてもアメリカについていくしか選択肢はないだろうという認識である。私は、米国の核抑止力に身を置くことが現実的という固定観念を脱却し、日本の安全保障にとって有効な新たなる構想をいかに構築できるかが鍵であると考える。

「北のミサイルは東京を狙っている」とか「北は既に核を持っている」といった情報に、我々は途方も無い恐怖を覚えざるをえないが、冷静にいえば、「北の脅威」は冷戦期のそれとは性格を変えている。つまり、北朝鮮の背後にソ連東側が存在し、北朝鮮の行動に東側が呼応して体制転換の脅威となっていた時代とは異なり、「ならず者国家」として自暴自棄の単発攻撃を仕掛けてくる危険が問題なのであり、現実には一端不当な攻撃が実行されたならば、その瞬間に北朝鮮の孤立と崩壊は決定的となるであろう。日本としては、冷戦後のパラダイムの中で、核やミサイルを実際には使えない兵器にしていくことであり、そのためには米国の核抑止力だけに期待するよりも、日本の原理原則としての「非核平和主義」に徹し、大量破壊兵器の廃絶を執拗に訴え続けるという「持たざる国の強み」を生かし切るべきであろう。

アジアの近現代史は、常に欧米による分断統治(ディバイド&ルール)に苦しみ抜いてきた。大英帝国のインド支配の構図以来、内部の敵対・反目を利用して統治するのが常套手段であった。今日の米国のアジア政策をみても、欧州に対してはNATOやEUなど多国間の地域統合的仕組を許容しているのに対し、アジアにおける多国間連携の仕組には積極的ではない。マレーシアのマハティール首相のEAEC構想や97年アジア金融危機後の日本のアジア版IMF構想にしても極めて神経質に反発する。米中、米韓、米日、米北朝鮮という二国間関係は存在するが、自らが主導できない多国間の地域連携には不快感を隠さない。だからこそ、21世紀のアジアに生きる人間は、この構図に問題意識を持ち、アジアの主体性と連携に視界を広げなければならないのである。

現実的な選択シナリオ

それでは、イラク攻撃が差し迫っているといわれる今、21世紀の外交を睨んで、日本がとるべき政策はどうあるべきか。私は次のように考える。一に、イラクへの武力攻撃を支持しない。国連の新しい武力行使容認決議があってもなくても、憲法によって「紛争の解決手段として武力を用いない」ことを国是とする日本の原則を貫くべきである。二に、それでも、日米同盟を外交基軸とする国として、米軍が中東に行動を起こす際、日本の基地を使用することは許容する。同盟責任としては、4.7万人、1,000万坪の在日米軍基地を提供し、駐留経費の7割を日本側が負担するという現実で十分である。三に、イラク攻撃に関しては、直接間接の軍事支援もしないし、戦費の分担もしない。アフガン攻撃時の「テロ特別措置法」を拡大解釈したり、新たな法律によってイラク攻撃に加担するべきではない。従って、「戦費の八割を同盟国に負担してもらう」ことを期待しているといわれる米国に対しても、明確に意思表示しておくべきである。

私が主張している政策は、ほぼドイツが採ろうとしている政策である。無論、ドイツと日本とは置かれている状況が違うという指摘があることも理解している。ドイツには北朝鮮のような近隣の脅威がなく、米国に強く依存しなくてもよい。また、ドイツは「集団的自衛権」を明確に認め、PKOをはじめ国連活動に積極参加しているから発言に重みがあるなどの指摘は傾聴に値する。だが、より重要だと思うのは、ドイツは九三年に駐独米軍基地の地位協定を見直し、基地を使用目的ごとに再検討してドイツの主権を大きく回復したことである。日本の場合、60年安保以来40年以上もの間、在日米軍基地の地位協定の改定を持ち出したこともなく、在日米軍は「ほぼ占領軍のままともいうべき占有権に近い地位」を保持している。主権回復の努力を積み上げてきたドイツとの差が際立つわけで、ことが起って対応を迫られても、主体性ある行動などとりえないというのが現実なのである。

であるが故に、単なるイラク攻撃への賛否を超えて、この国の新しい外交基軸を再構築することを主張したいのである。私は、米国との関係の再設計なくして日本の未来はないことを発言(「柔らかい総合安全保障論の試み」中公新書『国家の論理と企業の論理』所収1998年)し続けてきた。反米でも嫌米でもなく、日米同盟の重要性を評価する立場の人間こそ、在日米軍基地の縮小と地位協定の見直しを通じて日本の自立と主体性回復を志向し「相互敬愛」に立った日米関係を構築すべきというのが主旨であり、同時に、たとえ段階的にでも、ロシア、中国、北朝鮮、韓国をも招き入れた北東アジアの多国間の安全保障のスキームを実現すべきというものである。

結局、我々は、従来の枠組みと固定観念で21世紀も生きるのか、新しい国際関係を創造するのかという選択肢の前に立たされている。世界は変わっている。欧州での統合の拡大と「欧州の欧州化」ともいうべき自立の模索、中国の台頭とアジア諸国の自覚・自尊の高まり、ロシアの再生に向けた地歩固め、この世界潮流を睨みながら、なお日本は敗戦と冷戦型パラダイムに硬直したまま生きていくのであろうか。