連載「脳力のレッスン」世界 2003年3月号
中島敦と南の島
中島敦との出会いは高校の教科書に載っていた「山月記」であった。人が虎と化して人生を語るという中国の故事に由来する物語の奇抜さもさることながら、文章の格調と品位に強い印象を受けた。その後、『李陵』をはじめ中島敦の作品を読み、昭和文壇史に異彩を放って三十三歳で夭折したこの作家に惹かれていった。
とくに『李陵』は私の心に重い存在感を残した作品であった。人生の節目で何度となくこの作品を読み返した。漢の武帝の時代、匈奴と勇猛果敢に戦い俘虜となった将たる李陵を描いたこの作品は、「組織の中でいかに生きるべきか」を悩んでいた私にとって短編ながら張り詰めたメッセージを放っていた。降伏して胡地に「帰化」して生きた李陵とは対照的に、俘虜になっても決して敵に屈することなく孤独な幽閉と戦う蘇武。そして、俘虜となった李陵を誹謗する群臣の中で唯一人堂々と李陵を弁護して武帝の不興をかい、「宮刑」という男を男でなくする刑罰に耐えながら10年をかけて大作「史記」の執筆に向かう司馬遷。それぞれの男の行き方が重く語られていた。最期に、蘇武が19年間の捕虜としての生活に耐え抜いて祖国に英雄として帰国したという報を受けた李陵が「見ていないようでゐてやつぱり天は見てゐる」とつぶやく姿に涙した思い出もある。
様々な形での人間の宿命を肯定的に描ききる冷静さと、志とか意思を希求する熱さを併せ持つという意味で、中島敦の筆は心に迫るものがあった。『李陵』は不条理の中に生きざるをえない人間を考える上での濃縮された良薬であった。
中島敦の小説だけでなく、史実としての『李陵』も刺激的だった。東洋史学の権威たる東大の護雅夫教授の著『李陵』(中央公論社、1974年)によって、『李陵』の物語の背後にある漢と中央アジアの抗争と交流という歴史的脈絡を理解することができた。それは、近代に至る中国史の底流を視界に入れることでもあった。何故ならば、辛亥革命に至る中国近代史は、中国を支配した満州族の国たる清からの漢民族の復権運動でもあったからである。
中島敦・父から子への南洋だより
昨年秋、『中島敦・父から子への南洋だより』(川村湊編、集英社)という不思議な本が出版された。横浜高等女学校の教諭だった中島敦は喘息の転地療養のために休職し、南洋庁の国語教科書編修書記として南洋諸島(現ミクロネシア)のパラオに赴任した。その時、毎日のように子供や妻宛に手紙や絵葉書を書いた。その書簡を集めて、中島と家族との交流とともに、彼の南洋諸島での足跡を辿ったのがこの本である。
中島敦の書簡「南洋便り」を読むと、南の島で見たもの、聞いたことを実に細やかに子供達と妻に伝えようとしていたことが分かる。パラオに着いた直後の妻たかへの手紙に「ついでがあったらビスケットを送って」と頼んだ後、「何だか涙がでてくるよ 敦 おたかさん」と結んでいるのを見ると、旅愁の中での32歳の青年の妻に対する言葉にできない熱き思いが伝わってくる。「お前のこしらえた、絹の腹巻は、とても暖かいね。毎晩して、ねてるんだ。もう寝冷の心配はない」という文面には顔が赤らむ思いである。
中島敦の南洋での生活は、1941年7月から翌年の3月までの約9か月であったが、この間に彼は実に多くの島々を視察旅行で訪れている。今日の価値観からすれば、「土人」という言葉は差別だが、中島敦の南洋体験を総括するような率直な表現が妻への手紙にでている。「土人の教科書編纂といふ仕事の無意味さがはつきり分つてきた。・・・・・・今の南洋の事情では、彼かに住居と食物とを十分與へることが、段々出来なくなつていくんだ。さういふ時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にしてみた所で始まらないじゃないか。・・・・・・土人が嫌ひだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民(土人)がスキだよ。南洋に来ているガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない。」
改めて思い起させられる歴史的事実がある。戦後の日本人は、南洋諸島については、太平洋戦争が始まってから日本軍が占拠したと思いがちだが、それ以前の20年以上にわたり国際連盟からの委任統治領として日本が支配していた地域であった。サイパンを中心としたこの地域は、1521年以降スペイン人にの支配を受けてきたが、一八九九年にドイツ領とされた。さらに、第一次大戦期に、日本軍が占拠、ベルサイユ会議を経て日本の委任統治領に組み入れられたものである。
戦前の南洋諸島(マリアナ諸島)地図を注視すると、米領グアムを取り囲むようにサイパン、パラオ、ヤップなどの諸島が日本の統治領として配置されていたことに気付く。つまり、1898年の米西戦争以降、グアム島は米国に領有されていたが、周囲のサイパン、テニアン、ロタなどの島は日本が支配していた。南洋庁という行政機関の出先が置かれ、日本語教育が行われていた。戦争が始まる前の時点でのサイパン島の人口は2万8,756人、内日本人が2万5,687人、原住民のチャモロ族2,315人、カナカ族737人、外国人17人とある。「南の満鉄」といわれた植民地会社たる南洋興発が砂糖業を中心に事業を展開し、「砂糖王」と呼ばれた松江春次という人物が立志伝中の人物として権勢を誇っていた。
不思議なことに、この松江春次の銅像は米国支配下の今日でもサイパンに残っている。南洋興発のサトウキビ農場跡地に作られた「シュガーキング・パーク」に立つこの銅像は大日本帝国の南洋展開の名残ともいうべき存在となっている。
そして日本を想う
南洋諸島といえば、中島敦が訪れたこれらの島こそ太平洋戦争の激戦地であり、多くの人の命が失われた場であった。サイパン島は玉砕の島だが、この地だけで約四万人の日本兵と約一万人の民間邦人が戦死した。中島敦が帰国してわずか二年後のことである。私は、何年も前に新聞を読んでいて、ふと目にして心に残り、メモしておいた短歌を思い出した。
「母さん」と呼びつつ逝きし少年兵 南の島に佐渡ははるけく
(佐賀県・山嶺豊、読売歌壇、1996年7月28日付)
この歌は軍医だった作者が半世紀前の体験を詠んだものだという。南洋の島での佐渡出身の一人の少年兵の死。こうした哀しい死を何万と積み上げた南の島。一人一人の人生に想像力を働かせるならば、何万という李陵が遠く故郷を離れた地で不条理な死を迎えたのである。政治の意思決定の貧困が国家と国民にいかなる悲劇をもたらすのか。戦争が風化する中で、我々は決してこの哀しみを忘れてはならない。
この国は「武力を紛争解決の手段としない」という日本近代史の教訓を踏まえた決意を忘れ、今再びインド洋に日の丸を掲げた艦船を派遣し、米国によるイラク攻撃にも加担しようとしている。こうした愚かで軽薄な決断の積み重ねがいかなる不幸を世界の人々に与えるのか。我々は人間としての感受性を取り戻さねばならない。歴史を見失う時、人間は際限なく傲慢になる。小泉首相は、再三にわたる靖国神社参拝の理由を「二度と戦争を起こさないために」と説明した。であるならば、その問題意識は「戦争」に向かいつつある時代の空気に対してこそ向けられねば筋が通らない。
昨年末、元米国大統領のジミー・カーターは、オスロ市庁舎でのノーベル平和賞の受賞演説で、「核保有国が増えた現在、超大国が予防的な戦争を原則として採用すれば、破滅的な結果を招きかねない」として、現ブッシュ政権が昨年9月に出した「外交ドクトリン」における「テロとの闘いのための先制攻撃権」の論理を批判した。カーターなど「ベトナム・シンドローム」の時期の残骸とあざけるむきもあるが、「アジアの連鎖的共産化を防ぐ」として興奮した挙句、ベトナム民族の自尊心を読み間違えて一敗地にまみれた米国が、何かにすがるように宣教師のようなカーターを大統領に選んだ経緯を忘れてはならない。戦争を正当化する時代の空気に飲み込まれていけば、再び大いなる悔いを残すであろう。

