連載「脳力のレッスン」世界 2003年2月号
改革論議への疑問
この国における改革論議を再考すると、ある種の空しさが込み上げてくる。例えば、細川内閣の時代、「政治改革」が熱く議論された。しかし、改革なるものの目玉は「選挙制度の改革」に矮小化され、「中選挙区制」を「小選挙区比例代表並立制」に改めることへと収斂していった。それによって、政治の意思決定が高度化されたかは、その後の経緯をみていれば説明の要もない。代議制民主主義を内実あるものにするための真の「政治改革」は全く議論されなかった。本来、国会議員定数の思い切った削減とか議員の任期制限など、代議制の根本的見直しを行い、意思決定の質を高める制度設計を論じ合うべきであった。この国のメディアは、選挙制度の改革に疑問を呈する人間に「守旧派」というレッテルを貼り、空虚な政治改革論議に邁進した。
そして橋本内閣の時代、再びこの国は「行政改革」に興奮した。しかし「行政改革」はいつの間にか「省庁再編」へと矮小化され、既存の省庁を再編統合するだけの「数合わせ」に終った。その後、「公務員の数は減ったのか」「行政コストは下がったのか」を問い掛けるならば結果は明白で、改革は何も進まなかった。そこでは、真の行政改革というべき行政組織の機能別の統合や省庁間の壁を破る総合戦略の推進体制については全く手がつけられなかった。メディアは、省庁再編に反対する官僚を「抵抗勢力」として叩く程度のことに血道をあげ、真の行政改革がいかなるパラダイムにおいて論じられるべきかという問題意識は展開できなかった。
すべてが単純化・矮小化され、極めて視界の狭い中での興奮した議論が流行病のように繰り広げられ、後には何も残らないという事態が繰り返される。この愚かさに、そろそろ日本人は気付かねばなるまい。
道路民営化推進委員会の残したもの
小泉内閣の「構造改革」は10年後にどのように評価されるであろうか。その帰趨を予感させる出来事が「道路関係四公団民営化推進委員会」を巡る一連の動きであった。国家行政組織法に基づく八条機関たる委員会の議長が辞任に追い込まれ、多数決で決められた報告書が答申されるという結末は、今後この報告書がどのように扱われるかとともに、この改革の限界を語るエピソードとして記憶されるであろう。
確かに、この委員会の報告書が官僚の作文ではなく、「有識者」が主体的に議論を深めた結果の産物であることは高く評価すべきである。また報告書の内容も、民営化後の高速道路建設に歯止めをかけ、四公団で総額約40兆円とされる借金を約40年間で元利均等返済するというもので、道路建設に「採算性」という価値判断を優先させることを貫いたもので、小泉改革の論理的帰結としては妥当なものとなっている。
小泉首相がこの委員会の委員を「七人の侍」と持ち上げ、メディアが委員人選の段階から「改革派対守旧派」の構図として盛り上げたこともあり、「改革派」がどこまで頑張るかだけが焦点となった。「これ以上借金を増やして高速道路を建設するのか」という問題設定の中で、「このままでいい」という議論に正当性はなく、「採算性のない道路は作るべきではない」というのが「時代の空気」を反映した当然の結論とされていった。衆人監視の下、骨肉相食む形で議論を戦わせた委員の心労は大変なものだったであろう。
与件の中で一定の役割を果たした委員会への評価とは別に、議論のパラダイムそのものに疑問を投げかけておきたい。素朴な疑問だが、そもそも道路は採算性によって建設されるべきものなのだろうか。当然、長期的視点からの波及効果や国家としての高度な戦略性を視界に入れて、建設が検討されるべきものだと思う。高速道路を作らないことが改革でも正義でもなく、限られた財資の中から何を優先して先行投資するかが重要である。従来の公共投資の配分において、道路や農村基盤整備への比重が過度に大きかったことも確かに問題である。したがって、今必要なのは、将来の交通体系全体を戦略的に構想し、道路(自動車)、鉄道、航空を組み合わせて如何なる交通基盤インフラを整備するかを明確にする作業である。
例えば、世界を動いていると、紛争要素を内在させている地域では、中央分離帯のない片側五車線の3,000メートル以上直線の高速道路を確保している国もあり、安全保障戦略に沿った緊急着陸対応用の道路であることが分かる。日本でも、21世紀を睨みこうした観点から全国の九地域に一個所ずつ滑走路に転用できる高速道路を建設しておくような発想も必要であろう。言いたいことは、国家総合戦略の中で、「道路建設」が再検討されるべきだということである。
関東大震災の後に東京市長だった後藤新平が「昭和通り」の建設を主張したところ、反対世論が巻き起こった。多くの人の立ち退きを要する極端に広い道路の建設など不要というものだった。それでも後藤は、長期戦略として東京の大規模火災発生時の延焼対策には「昭和通り」の建設は不可欠として建設を強行した。それが今日の東京にとって極めて重要なインフラとして残っていることは説明の要もない。
道路関係四公団を民営化し採算性を高めれば問題解決というものではなく、例えば国土交通省の管下の道路と農林省管下の「農道、林道」との整合性など道路行政全体の問題が残る。おそらく高速道や直轄事業における国家としての戦略性・総合性の深化と地方道における自治体の主導性確率および住民意思の反映が道路行政変革の鍵と思われる。問題を「改革派対抵抗勢力」の構図に単純化して世論を刺激する議論のパラダイムを変えるべき時である。
「月よりもガン」なのか
米国のJ・F・ケネディー大統領が1960年代に「人間を月に立たせる」という宇宙開発計画を発表した時、メディアの中には「月よりもガンの撲滅のほうが大切」という批判があった。この種の議論は大衆受けする主張であり、しばしば繰り返されてきた。しかし、宇宙開発は過度な冒険ではなく、その裾野に蓄積された技術が、例えばコンピューター技術から後の「IT革命」を促す技術、さらには新素材に至るまで人間社会の進歩と発展をもたらしたことは否定できない。ケネディーの宇宙開発は、人工衛星の打ち上げで遅れをとったソ連への対抗という冷戦期のモチベーションを背景とするものではあったが、強い国家意思を前提としてプロジェクトの優先順位は明らかになることを示している。
右肩上がりの時代が終り、デフレ傾向の中での「分配の基軸」の再設計が求められている。税金の使い方にしても、「誰もが少しは配分にあずかり、毎年配分が増える」という時代は終った。軽重判断、優先順位が求められるわけで、それだけに「価値の権威的配分」を担う政治というセクターの機能が問われるのである。
もう一つ、最近の日本の意思決定に関して気掛かりなことがある。「有識者」による審議会や第三者機関に対する過剰期待の問題である。一つの問題を解決するためには一つの審議会が必要とでもいえる風潮が蔓延している。行政官僚への不信感や利権の政治への嫌悪感を背景に、審議会や第三者機関のほうが客観的で正当な判断力を有するというイメージが存在することも確かである。しかし、この方法論は代議制民主主義や行政機構を空洞化させることも視界に入れねばならない。前述の民営化推進委員会も、驚くべき情熱で35回の議論を重ねたというが、それでもアドホックな機関であり体系的・継続的責任の中で議論がなされているわけではない。
私自身、幾つかの政府審議会に参加してきたが、あくまでも、岡目八目での違った角度からの視界を広げる議論をするのが役割の限界であり、我慢強く政策化や制度設計をサポートする姿勢が重要だと思う。「有識者」に意思決定のスポットライトを浴びせるポピュリズム手法は、結果的にこの国の意思決定を麻痺させることに気付かねばならない。

